ポップカルチャー全般を見渡す視野の広さを持っていて、現在の映画が置かれている状況を映画史的な視座から正確に捉えていて、そこでどのような作品を作ることが“カウンター”となるか、あるいは(商業的な意味ではなく)本質的な意味で“最適化”することができるか。映画は、もはや映画であるというだけでその価値が無条件で保証されるような、自明性を有したアートフォームではない。日本で、宮崎大祐監督ほどそのことに自覚的かつ、これまでの作品においてその命題に挑んできた監督は他にいないのではないか。2023年の夏に続けて公開された『PLASTIC』と『#ミトヤマネ』には、そんな宮崎大祐監督ならではの“カウンター”と“最適化”がそれぞれ絶妙なバランスで調合されていた。

玉城ティナ演じる若い女性インフルエンサーを主人公に、YouTuber、ソーシャルメディア、アテンションエコノミー、キャンセルカルチャーなどをモチーフとした『#ミトヤマネ』。そのトピックの扱い方、ディテールの描写、及びそこに切り込んでいく角度の鋭さにおいても、信頼の置ける宮崎大祐監督のこと、もちろん“外している”部分はない。その上で、自分が注目したのは、そんな(あえて言うなら)“現代的でありふれた”題材にどうしてこのタイミングで飛び込んでいったのかということ。そして、観客によっては“煙に巻かれた”と思われそうな終盤の急展開を用意したのかということだった。

結果として、このインタビューは『#ミトヤマネ』の作品の中身とシンクロするような、映画監督の“セルフイメージとパブリックイメージ”を巡る会話、そして現在ハリウッドを中心に大きな問題となっている“映画のAI化”を巡る会話へと発展していった。一部、少々誘導気味な質問もしてしまったが、それは宮崎大祐監督が日本国内においても、国外においても、現在のように“知る人ぞ知る存在”のままであってはならないという思いからだ。

■「“もっとねらっていってもいいんだけど結局は自分になっちゃう”みたいな映画をずっと作ってきたと思うんです」(宮崎)

――夏の始まりに『PLASTIC』が公開されて、夏の終わりに『#ミトヤマネ』が公開されて。この夏は立て続けに新作が公開されたわけですが。

宮崎「いや、もうちょっと公開日が離れてるもんだと思ってたんですけど、いろいろ諸事情があって(苦笑)」

――でも、作品が続けて公開されるのって、精力的に活動しているのが伝わるし、作家としての振れ幅を示すこともできるし、悪くないですよね。これまでの宮崎さんのフィルモグラフィーも十分に幅のあるものでしたが、その流れを踏まえても『PLASTIC』と『#ミトヤマネ』は両極にあるような作品で。ご自身の位置づけはどういう感じですか?

宮崎「コロナの時期に結構鬱々としていたこともあって、明るい作品を撮りたいなって思いがあったんですよ」

――確かに、そういう意味では両作とも明るいですね。

宮崎「プロデューサーからよく言われるのは、暗めのスリラーとかホラーのほうが商業的には売りやすいってことなんです。でも、自分としては明るい、ちょっとほんわかとしたものがやりたかった。だから『PLASTIC』はそうなっています。『#ミトヤマネ』のプロデューサーからは、『VIDEOPHOBIA』の延長的なノワールっぽい作品をやりませんかって言われ、インフルエンサーの失墜を描くスリラーはどうですかと提案したら『わかりました』という話になって、それで最後まで突き進みました(笑)」

――以前、この連載でも取り上げた加藤拓也監督の『わたし達はおとな』もそうでしたけど、今回の『#ミトヤマネ』の製作幹事を務めてるメ〜テレ(名古屋テレビ放送)は、近年、メジャー映画とインディペンデント映画の狭間で秀作を継続的に世に送り出してますよね。他にも、地元のミニシアターで映画祭をやったりと、日本映画界に一石を投じている印象があります。

宮崎「他の作品のことはわかりませんが、自分の場合は『好きにやってください』としか言われてなくて。『#ミトヤマネ』では本当に好きにやらせていただきました」

――最後まで一切口を出さないんですか?

宮崎「完成後に『ここのカットの編集の順番、こうできないですか』みたいなことを言われたんですけど、こういう理由でこうなってますって説明したら『ああ、そうですか。このままで大丈夫です』って」

――(笑)。初号試写で、上映前に宮崎監督が『この作品はホームランになるか三振になるかだと思います』って言っていたのが印象に残ってるんですけど、要は、確実に塁に進むことをねらった作品ではなく、大振りした作品ということですよね。

宮崎「そうです。確かに、そんなことを言いましたね(笑)。せっかく全幅の信頼を置いていただいて、好きなように、いま思ってることをぶつけてくださいって言っていただいたんで。ここで大振りしないでどうすると思ったんです。この機会に、自分が一番いまおもしろいと思ってること、いまの自分をたたきつけてやろうと思って、思いっきりやった作品です」

――試写の後にも言いましたけど、自分は二塁打か三塁打だと思ったんですね。めちゃくちゃおもしろい作品なんですけど、観たあとに解釈が必要とされる作品で。あんまり言うとネタバレになるんで核心的なことは言わないようにしますけども、観終わったあとにスッキリするような作品ではない。

宮崎「そうですね」

――もちろん、それがこの作品の良さでもあるんですけど、宮崎監督が以前インタビューで、「ヒットする作品の典型の一つ」として “驚くべきオチの映画”と語っていましたが、それともちょっと違う。ストーリー展開的には、そこを周到にねらっていくというのも選択肢にあったんじゃないかと思うんですけど。

宮崎「僕がやっちゃうとそうはならないっていうか(笑)。これまでも、“もっとねらっていってもいいんだけど結局は自分になっちゃう”みたいな映画をずっと作ってきたと思うんです。そういう意味では、自分のフィルモグラフィーに第一期、第二期みたいなものがあるとしたら、その第一期の最後みたいなつもりで作った作品で」

――“結局は自分になっちゃう”映画のラストみたいな?

宮崎「はい。だから、『#ミトヤマネ』で自分の作品を初めて観るような人は、ちょっと驚いてしまうかもしれませんね」

――言い換えれば、普段あまり映画をたくさん観てない人にとっては、ということでもありますよね。

宮崎「そうですね」

――『大和(カリフォルニア)』(18)を初めて観た時からずっと思っているのは、宮崎監督って基本的にすごくポピュラーでわかりやすい作品を作る資質を持っている監督なんじゃないかってことで。もしかしたら、ご自身が認識しているよりも。

宮崎「(苦笑)」

――『PLASTIC』、『#ミトヤマネ』と続けて観て、今回それを改めて痛感して。ただ、言い方はあれですけれども、シネフィルっぽさが仇になっているというか(笑)。

宮崎「仇になってる(笑)」

――小難しそうな映画を作ってるイメージがあって。お話をうかがっていて『#ミトヤマネ』が一つのタームの終わりになりそうだということはわかったんですけど、それと同時にもっと広い層にアピールする上での始まりになり得る作品だと思ったんですよね。

宮崎「ありがとうございます。まさに宇野さんがおっしゃったようなところから、次に行くためのステップになる作品だと思ってます」
■「映画は感傷とノスタルジーに蝕まれています」(宮崎)

――宮崎監督の強みって、ポップカルチャー全般に対してとても理解が深いことだと思っていて。正直、シネフィル周りに限らず日本の映画界、特に40代以上の男性監督って、ポップカルチャーに対するアンテナみたいなものをそもそも持ち合わせていないみたいな、そういう作り手が多いじゃないですか。

宮崎「そうですね」

――『大和(カリフォルニア)』におけるヒップホップに対する的確なアプローチもそうですけど、『PLASTIC』を観た時も「あっ、こんなにロックも好きだったんだ」と驚きがあって。そもそも宮崎さん自身はどういうタイプのリスナーだったんですか?

宮崎「入りはロックでしたね。中学生になったばかりのころはビジュアル系をよく聴いていて」

――『PLASTIC』も当初はビジュアル系のバンドの設定にするつもりだったとか?

宮崎「そうなんですよ。そこからバウハウスとかゴシックロックを遡って、ちょうどニルヴァーナとかの時代だったんで、同時代ではどんどん洋楽にいって。そこに高校生になってからはテクノとかも入ってきて、やがて同時代の音楽も過去の音楽も片っ端に聴くみたいな生活になっていって、当然その中にはヒップホップもあって」

――じゃあ、映画にもどっぷりな一方で、音楽に関しても普通にヘビーリスナーって感じだったんですね。『#ミトヤマネ』も、音楽の使い方を誤ったら一気に説得力がなくなってしまう題材だと思うんですけど、そこで外してないっていうのが、めちゃくちゃ大きいですよね。

宮崎「ありがとうございます。でも、なかなか周りの映画関係の方と音楽の話は合わないですね。すぐにニール・ヤングとかの話になっちゃうんで。『いや、ニール・ヤングも好きですけど…』っていう感じで(苦笑)」

――でも、それって日本に限らないですよね。自分が最近よく思ってるのは「映画ってロック世代で終わる表現形態なのかな」みたいな(笑)。だって、まだそんなに高齢ではない現役屈指の監督2人、ルカ・グァダニーノとジェームズ・マンゴールドがどっちもボブ・ディランを題材にした映画を撮るって、一体どういうことなんだよ、みたいな(笑)。既にトッド・ヘインズも撮ってますけど。

宮崎「(笑)。映画は感傷とノスタルジーに蝕まれています」

――本当にそうですね。そして、ロック世代以降の優れた才能が、映画の世界にあまり入ってきていない気がしてならないです。

宮崎「感傷とノスタルジー、嫌なんですよね…」

――だから、それを打ち破ってくれそうな宮崎監督に期待してしまうんです。

宮崎「打ち破っていきたいですね」

■「映画監督にとってもパブリックイメージをどう打ち出していくのかって重要じゃないですか」(宇野)

――今回の『#ミトヤマネ』もまさにセルフイメージとパブリックイメージについての映画ですが、映画監督にとってもパブリックイメージをどう打ち出していくのかって重要じゃないですか。実像とパブリックイメージの間の距離をどうとるかというのは現代的主題でもあるわけですが、宮崎監督はどのように考えてますか?

宮崎「まさに、今日、宇野さんとの話はそういうテーマになってくると思ってました。古い映画ばかり観ているシネフィルがどうのみたいなイメージに――実際にそういう背景から映画作りを始めたんでしょうがないんですけど――絡め取られていくのがすごく嫌で。かといって、作品をなるべく軽くしようとしても、相変わらずいろんなしがらみがくっついてきて。さっきの音楽の話がまさにそうですけど、僕が映画でヒップホップを使ったりとかすると、周囲からは『よくわからない』みたいな反応が返ってくる。いっそ、そこから抜け出して、もう全部をリセットして、これからは記号としての宮崎大祐の第二段階を始めたいぐらいの気持ちではいるんです。だから、さっき言った“結局は自分になっちゃう”という意味でも、そういうところがこの映画に反映されているかもしれません。全部リセットしたい、自分の背景を忘れたい、誰かに背景を消してほしいという」

――なるほど。具体的に、第二段階でどういうところに行きたいというイメージはあるんですか?

宮崎「あります。もっと職人的になりたいと思ってます。作家とかアーティストとかではなく、職人的に映画を作っていきたいという思いが結構強いです。今後はその方向に行けたらなと」

――へえ! それは結構驚きです。

宮崎「出来るのであれば」

――確かに宮崎さんの作品って、これまで全部作風は違うんだけど、なぜか“作家の映画”として受容されてきたようなところがありますよね。最近の監督でいうと、さっきも名前を出しましたがちょっとジェームズ・マンゴールドみたいな。

宮崎「ありがとうございます。まさにジェームズ・マンゴールドは目標にしてる大好きな監督です。そういう方向にだんだんと舵を切っていけたらな、という思いはありますね」

――なるほど。『PLASTIC』や『#ミトヤマネ』でも脚本を書かれてますけど、場合によっては脚本を手放してもかまわない?

宮崎「もう全然問題ないです、はい」

――そういう気持ちに至ったのは、どういう理由からなんですか?

宮崎「これまでの映画作りは、自分にとって筋トレみたいなものだと思っていて。子供の頃、80年代に映画を観始めて、その頃のジャンル映画みたいな世界にずっと憧れがあるんですけど、すぐにそこに行けなくて、どうしても自分の周りにあるものから映画を作るしかなくて。でも、もう筋トレは済んだんで、これからは、もっとジャンル映画というか、エンターテインメント作品を撮ってくぞっていうつもりでいるんです」

――なるほど。これは特に『PLASTIC』に感じたんですけど、いくつかすごくひっかかる奇妙なシーンがあって、そこはもちろん作劇上ちゃんと効いているんですけど、そのいくつかのシーンを取り除いてみたら、実はかなり王道の青春映画にもなってるじゃないですか。ジャンル映画が撮れることを示した上で、敢えてすっとぼけたり、ズラしみせたりしているというか。

宮崎「あんまりこういうこと言うのは良くないかもしれないですが、実はそういうつもりもちょっとありました。おっしゃるように、“作家の映画”的なものもありつつ、その部分を抜くとちゃんと普通の映画になってるっていうのはあの作品で意識したところです」

■「映画史には音楽史を追いかける側面があると思っていて」(宮崎)

――『#ミトヤマネ』に関しては、78分という上映時間も一つのステートメントになってますよね。

宮崎「はい。映画史には音楽史を追いかける側面があると思っていて」

――自分もそう思ってます。

宮崎「ですよね? だから、今20数曲入ってるアルバムが当たり前になってる一方で、すごく短いアルバムも増えているように、きっと映画もすごく長いかすごい短いものになっていくっていう見立てがあるんですよ」

――映画の長尺化については、ハリウッド映画だけでなく、濱口竜介監督のようにそれが許される環境で作品を作ってる人はどんどんその領域に入ってきてますよね。

宮崎「一方で、めちゃくちゃ長いTikTok、めちゃくちゃ長いインスタストーリーみたいな、そういう映画も今後は増えてくると思っていて。『#ミトヤマネ』はそれを明確に狙った作品なんです。あのストーリーで下手に説明的になったり、サスペンスを組み立てていったりすると、すぐに115分とかになっちゃうんですけど、そうではなくここは勢いでいく必要があるだろうと」

――やっぱりそうですよね。話していてすごくクリアになってきました。

宮崎「多分、映画が長くなってるのは延命措置なんですよ。長さが映画性を担保するというか、そうでもしないと倍速で見られちゃうし、YouTubeの動画と変わらなくなるみたいな、そういう映画の作り手側からの叫びなような気はしていて。映画というアートフォームがどんどん古典的なものになって、伝統芸能的なものになっていくという流れは、もう決定的だと思うんですけど。だからこそ、僕は長い映画の半分の尺でゴリゴリ行こうと思って」

――今後短い作品ばかり撮るというわけじゃないにせよ、『#ミトヤマネ』に関してはかなり意識的に狙っていったということですよね。

宮崎「はい」

――いずれにせよ、これまで映画の世界で常識とされてきたことに対しても、すべてに意識的にならざるを得ない時代ですよね。

宮崎「本当にそう思います。映画自体は、別に単純な自己表現とかでもいいと思うんですけど、おっしゃるように映画であることに対して意識的になっていかないと、なかなかもう商業作品としては成立させるのは難しいのかなとは思ってます」

――その上で、宮崎監督自身はそんな状況に希望を持ってる感じですか?

宮崎「日本だけのことを考えるとなかなか絶望的な気持ちにもなるんですけど、世界を見渡せばまだそこまで絶望的ではないという認識もあるので。そう考えたら、まだどうにかやり方はあるのかなっていう。一方で、僕には映画を作ること以外になにもできることがないっていうとこで、ここで止まっちゃったらやばいなっていう危機感はあります」

■「もはや実際に撮る必要のあることって、もうほぼないんだなって思っちゃって」(宮崎)
――映画の未来という視点からも、『#ミトヤマネ』は非常に示唆的な作品でもありますよね。現在起こっているハリウッドのストライキでは、脚本や役者のAI化の阻止というのが大きな目的の一つになってるわけですけど、『#ミトヤマネ』では山根ミト(玉城ティナ)のビジュアルイメージが世界中に勝手に拡散していって大きな問題を引き起こすことになる。劇中ではディープラーニングという言葉が使われてますが、現在最もホットなトピックを見事に先駆けて捉えているとも言える。

宮崎「『VIDEOPHOBIA』で自分のプライベートな動画が世界に流出しちゃうというテーマを扱ったので、自分の中ではその延長上でもあって」

――確かに。映画でメディア論をやるというのは、宮崎監督の作品の大きなラインの一つですね。

宮崎「ディープラーニングに関しては(スティーヴン・)スピルバーグの作品(『レディ・プレイヤー1』)に三船敏郎のイメージが出てきたじゃないですか。あれは親族の許可を得ていたらしいですけど、あの時点でやばい時代が始まったなって思っていて。(クリント・)イーストウッドのデータがもう回収されてるみたいな噂もあって、ずっと関心があったんですよ」

――おっしゃるように、言葉が違うだけで、映画のAI化って別にいまに始まったことじゃ全然ないですよね。

宮崎「そうなんですよ。脚本や俳優の肖像のことがいま話題になってますけど、背景とかでは、もう自分の作品のような規模の現場でもとっくに始まってることなんで」

――『#ミトヤマネ』でも使ってる?

宮崎「はい。日本ってもともと醜い看板とかが街中にあって景色が貧しいじゃないですか。これまでは、その貧しさをそのまま撮ってやろうっていうか、いきなりカメラ持って街中に行っちゃうみたいなのが好きで、そのドキュメント感というか、その時代のその場所の記録みたいなものが好きだったんですけど。『#ミトヤマネ』はそれとはちょっと違うやり方が必要だなって思って、顔が映るところをエキストラの方に変えたりとか、あとからCGで町の看板を全部消したりとか、ポストプロダクションでかなり手を入れてます」

――日本の場合、街中での撮影はそうしないとクレームがくるという問題もありますよね?

宮崎「そうなんですよ。スクランブル交差点とかもすごい大変で、この看板が写ってるとすぐクレームが来るみたいな、そういう理由でどんどんどんどん消さなきゃいけなくて、もはやなにを撮ってんのかよくわかんなくなってくるという。最終的には、“スクランブル交差点っぽいイメージ”を撮ってるだけみたいなことになってしまう」

――そりゃあ新海誠みたいな写実的なアニメ―ション作品のニーズがあるわけですよね。あれが一番観ていて楽しいですから。

宮崎「いや、本当にそう思いますよ。ここまで加工しちゃうんだったら、もうパソコンで全部作っちゃっても変わらないなと思っちゃうようなシーンもありました。今回は作品のテーマ的にもそういう偽物っぽい、合成っぽい作品ではあったんで、それもアリだと思ってやりましたけど、日本で実写作品を撮るのは本当にそういう意味でも大変で」

――だって、デヴィッド・リーチの『ブレット・トレイン』とか、コロナ禍の撮影という事情はあったにせよ、日本にほぼ来ないで全編日本を舞台にして映画を作ってるわけじゃないですか(笑)。そんなことをやってるハリウッドが、いまさらテクノロジーを敵視してどうするという話でもあって。もちろん、脚本家や俳優の権利は守られてしかるべきですが。

宮崎「先週久しぶりにAdobeのソフトを開けたら、Photoshopでどんな小さな写真でもその横の風景を全部AIで伸ばせますっていう広告が出たんですよ。もはや実際に撮る必要のあることって、もうほぼないんだなって思っちゃって。そういう時代になんの映画を撮ったらいいんだ?って(笑)」

――もう10年以上前からデヴィッド・フィンチャーなんて8Kだか16Kとかのカメラで撮って、作品に使うフレームをそこから抜いてるわけじゃないですか。その時点でもう、我々がそれまでに観てきた映画とは違うものになっている。

宮崎「そうですよね。今後はフォーカスとかも後処理で付けられるようになるらしいんですよ。そうなると、もう映画作りってほぼアニメーション作品に近い作業になってきちゃうと思うんで。そういう時代に、僕みたいな『ファーストカットが最高!』『撮り直しちゃいけないんだ、映画は』みたいな風土から出てきた作り手は、どう映画を作っていくんだろうっていう、その頭の切り替えはいま後必要だなと思ってます」

――iPhoneのカメラのシネマティックモードとかも、「なにがシネマティックだよ!」ってつっこみたくなるんですけど、もはやビッグテックにとって映画はそういう抽象概念になっている。

宮崎「本当にそうですよね(笑)」

――最近のMCU作品なんてほぼほぼアニメーション作品を観ているようなものですからね。役者がどれだけそれまでのキャリアやプライドを投げ打って、グリーンバックの前で演技に没頭できるかを観客は眺めている。

宮崎「そういう作品がアニメーションとなにが違うのっていうことに意識的な人って、どれだけ日本にいるのかなっていう気もするんですけど。ただ、少なくとも僕の周りはここ数年の急激な変化にみんな結構騒いでますね。『どうしようどうしよう』って。一方で、このあいだ観た『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』に完全にやられてしまって。自分があの作品をこれだけ受け入れられたというのは、自分にとっても一つの転機だなと正直思っていて。これまでアニメ―ションずっと苦手だったんですけど」

■「まだ40代前半で、すごく才能にあふれた映画監督としては、行く道は一つなんじゃないでしょうか」(宇野)
――1作目の時点ではそんなに?

宮崎「1作目の時は『すごいけど、これを認めちゃうと自分の仕事がなくなるんじゃないか』みたいな気持ちにもなったんですけど、今年の2作目は全面的に受け入れてしまって、もうこの方向に舵を切っていくしかないと思ってしまうくらい。具体的にどうこれからの自分の作品にフィードバックしていくかって話をできるところまではまだいってないんですけど」

――いや、だとしたら、その方向に踏み出すしかないですよ。現在60歳過ぎくらいの監督だったら、古き良き映画の守護神として振る舞うというのは、全然ありだと思うんですけど。まだ40代前半で、すごく才能にあふれた映画監督としては、行く道は一つなんじゃないでしょうか。だって、古き良きものを守ろうとしてる人はもういっぱいいるし、彼らはそれしかできないわけだから。今日のインタビューの前半では宮崎監督が個人的なターニングポイントにきてるって話になりましたけど、映画自体もまたターニングポイントにきてるわけで。

宮崎「本当にそうなんですね。だから、宇野さんの本(『ハリウッド映画の終焉』)も、おお、いまこそ書かれるべき本だって感じでしたし」

――ありがとうございます。自分が宮崎監督に期待するのは、『#ミトヤマネ』でかなり近づいたと思いますけど、もっとさらに破廉恥なことやっても全然いける気がしますね。やっぱり、ちょっとまだ恥ずかしがってるようなところも感じられたので(笑)。

宮崎「破廉恥ですか(苦笑)」

――いまって、世の中の人が求めているのって“伏線回収”みたいなことじゃないですか。宮崎監督のような方がそれをやるのが小っ恥ずかしいのはわかるんですけど、そういうのも必要なんだろうなって。伏線回収が好きな人たちにとっては、『#ミトヤマネ』のように回収されきれない作品は怖いと思うんですよ。その怖さもこの作品の良さだと思うんですけど。

宮崎「いや、わかります。僕は(M・ナイト)シャマランが大好きなんですけど、『シックスセンス』的なってことですよね?」

――シャマランの作品も最近はよくわかんないことになってますが(笑)。あるいは、ジョーダン・ピールぐらいハッタリかますとか。

宮崎「確かに、あれが出来たら一番いいですね。次のステップに向けて、牙を研いておかないとと思ってます」

取材・文/宇野維正