広報しかおい(北海道鹿追町)

令和3年1月号

■第七回 西上幌内希望の開拓
(資料提供:Tさん)

◆碑文
西上幌内の開拓の沿革
大正弐年民有地として売払いされた五百七拾余町歩は爾来新田牧場として利用されていたが、昭和弐拾弐年戦後開拓地として指定を受け翌弐拾参年未墾地として買収されるや、道庁は西上幌内地区開拓計画を樹立しこの遂行と相俟って開拓以来参拾戸を数える入植者と農道及び井戸、暗渠排水等の建設工事を実施し特に昭和弐拾六年開拓学校西上幌内分校の設立により益々安定せる開拓地として発展の一途を辿りつつあり
昭和弐拾九年九月 建立
入植者氏名
松浦清助、蝦名岩太郎、楠川政美、金森長、松館住太郎、佐藤久助、香川信次、成田武衡、斉藤善次郎、栃久保永好、藤原薫明、阿部操、金森誠、槇昇、阿部佐美雄、工藤忠吉、吉田信男、日下進、星忠助、神憲二、三好勇、石田佐多雄、三好三男、佐藤巌、沼口政吉、鷲見亀松、下元武一、蝦名友治、日下福雄、中村晃

◆新田牧場の小作入植
大正2年、新田長次郎氏が西上幌内1145町歩余、上幌内145町歩余を牧場用地として払い下げを受けました。大正6年、森利三郎氏を管理人に小作入植者を迎えたことに始まります。
当時の入植者は大江伊次氏、大川栄太郎氏、奥田弥之助氏、佐藤禎三郎氏、高橋熊次郎氏、藤原藤蔵氏、佐藤巳八郎氏、奥田弥五郎氏、佐藤源八郎氏、矢作作治氏、北岡千代治氏らでした。その後、日下儀平氏らが順次入植して開墾が進められました。
入植者の増加に伴って、その子供たちの教育が課題となり、大正10年、西上幌内特別教授場が開校、「新田分校」と呼ばれ、保護者や通学児童に喜ばれました。
大正12年には、寒地農業の確立に、道庁から乳牛8頭、新田牧場から7頭の貸付牛を導入、酪農振興が図られました。
河西鉄道が開通すると、地域住民の分布が変わり学校の位置問題が起こりました。上幌内小学校と、西上幌内の通称「新田分校」の合併が議論され、昭和6年に「校舎移転新築の件」を議題に地域総会を開いた結果、新田農場から学校敷地の提供を受け、「新田分校ヲ新学校ニ移転スル、運搬地均シ義務出役ノコト」(原文のまま)と上幌内校の位置変更と合併が決定されました。
しかし、本町で最も高丘山麓地帯で、春は融雪が遅く遅霜。秋には早霜に襲われ、当初の目的達成には程遠く、農家経済は貧困に追い込まれ、ついに数軒を残してこの地を離れることになったのです。

◆戦後の開拓地指定
この地域が再び開墾地に指定されたのは、太平洋戦争終戦後の食糧増産と引揚者対策および不在地主の解散にありました。
開拓地の指定を受けると、昭和22年、日下進氏、松浦清助氏、金森長氏が入植。次いで樺太引揚者や全国の戦争被災地から移住者を迎え、30戸を超える地域を形成し、西上幌内小学校も再び開設されました。
昭和8年に新田農場に入植した菅原五郎氏の手記には、次のようにあります。
「まず住む家を建てたが、2間半に5間、間仕切りして馬2頭を飼育、残りの3間に人が住む。馬と同居で馬ふんの臭いのなかで起居していた。柏の大木は、新田が移動製材機で鉄道枕木を作って国鉄に納入。一面の伐採残木と萩は、風倒木と一緒に燃やした。開墾は馬3頭曳きで、自分が新墾プラオを持ち、妻が御者をして起こした。」(一部抜粋)

◆戦後入植者の記録
昭和23年に入植した蝦名美智子氏は、当時の思い出を残しています。「3間に5間の家を建てたという夫の言葉に、心弾ませて来たら掘っ立て小屋。家具らしき物は何もなく、あたりは萩と熊笹ばかり。あの時の心細さは忘れられない。更に、水不足に悩まされた。毎日馬で2キロ離れた川へドラム缶を積んで水汲みで日課が始まる。」(一部抜粋)

昭和29年になると、入植者戸数も30戸を超え、これまでの耐乏生活から徐々に解放されました。明るい楽園づくりに夢を膨らませ「希望の開拓」の碑を建立し、更なる発展を願ったのです。
碑に刻まれた30人が希望と絆を深め「記念碑」を建立。明日へ向かって大きな飛躍を願いましたが、慢性的な冷害凶作に見舞われ、昭和40年に町営乳牛育成牧場に変身。碑に名を残した全員が、新天地を求めてこの地を後にしました。

開拓地に誇らしく残された碑は、去来今の多くの人々を、今日も見守っているのです。

◆牛魂碑
開拓者の最大の機動力であり、相棒であった農耕馬の安全と、死亡した家畜の供養に馬頭観世音塔を建て祭祀していましたが、現在はその跡地に「牛魂碑」と墨書した木碑を建立して、傷病死した放牧牛の慰霊と、安全育成を祈願しています。