広報しもつけ(栃木県下野市)

令和3年6月号

下野市教育委員会 文化財課

しもつけ風土記の丘資料館の新たな展示でも扱っている、奈良時代の始まりをご紹介します。奈良時代とは、平城京に遷都した710年から、平城京から長岡京に移るまでの70年余りを指します。

■遣唐使、世界の最先端をみる
大宝(たいほう)元(701)年の大宝律令(りつりょう)の施行とともに、天智天皇による670年の派遣以来約30年ぶりに遣唐使が派遣されました。この遣唐使の執節使(しっせつし)(天皇から権限を委任されたことを示す節刀(せっとう)を授与された使者で、大使よりも上位)は、大宝律令を編さんした粟田朝臣真人)(あわたのあそんまひと)でした。使節団には、他に山上憶良(やまのうえのおくら)や道慈(どうじ)らも加わっていました。道慈は、この派遣から帰国した後、日本の僧尼の質を向上させるために戒師の招聘(しょうへい)を提案した人物です。この提案が、後に唐から鑑真和上(がんじんわじょう)を招来することにつながりました。
また、このときの使節団が、唐に「倭(わ)」から「日本(にっぽん)」への国号の変更を披露したと考えられています。

使節団が楚州(そしゅう)に到着する頃には、唐王朝は則天武后(そくてんぶこう)による周(しゅう)王朝へと代わっており、長安(ちょうあん)の都城の様式や政治制度は、30年前の遣唐使によって伝えられていたものとはかなり異なっていました。遣唐使派遣の本来の目的のひとつは、白村江(はくそんこう)の敗戦以降、都城の造営や律令の制定、銭貨の発行、国号の制定など、独自に国家の体裁を整えてきた日本の威信を示すことでしたが、様変わりした長安に大きな刺激を受け、使節団は慶雲(けいうん)4(707)年に帰国しました。

当時の都、藤原京(新益京(あらましのみや))は完成したばかり。都としての運用が始まってわずかな期間しかたっていませんでしたが、旧来の豪族の勢力圏である飛鳥(あすか)に近く、様々な影響を受けることが問題となっていました。さらに、藤原京がとっていた、大極殿(だいごくでん)を含む宮域が都城の中央に位置する都城形態は既に旧式であるという報告が、帰国した粟田真人ら使節団から入ります。

慶雲4年2月、文武(もんむ)天皇は五位以上の王族・貴族に、遷都を検討するよう命じました。このとき、既に兵部卿(ひょうぶきょう)と式部卿(しきぶきょう)を歴任し、中央政府で朝政にたずさわっていた下野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)も、この会議に参加したことでしょう。会議の中核を担うような、発言権をもった立場であったと考えられます。
議論の末、完成からわずか15年余りの藤原京を廃し、和銅(わどう)3(710)年3月に、平城京への遷都が行われました。後の下毛野一族出身者の活躍と、一族の名を冠した下毛野寺(しもつけのでら)が平城京内に建立されたことからも、この遷都に下毛野一族が大きく関わっていたと推測されます。

■奈良時代の光と影
和銅3年に平城京への遷都が行われてから、延暦(えんりゃく)3(784)年に平城京から長岡京に移るまでの期間が奈良時代です。このうち740年までを前期、745年から784年までを後期と区分します。前期と後期の間、わずか5年の間に、聖武(しょうむ)天皇は恭仁京(くにきょう)、難波京(なにわきょう)、紫香楽宮(しがらきのみや)と都を転々と移し、再び平城京に戻りました。

奈良時代には、大宝律令の制定、平城京の建設、唐や韓半島諸国との交流、和同開珎(わどうかいちん)などの貨幣の発行、軍備増強、辺境開拓、新たな産業の促進、記紀(きき)や風土記(ふどき)の編さんが進められるなど、国際的な感覚が発達し、仏教に基づいた華やかな天平文化が花開きました。
一方で、疫病が流行し、天候不良による災害や飢饉(ききん)、政権争いなどが相次ぎ、聖武天皇は社会不安を取り除くため、総国分寺として東大寺に大仏をつくり、各国に国分寺・尼寺の造営を命じました。

下野国でも、都と東北地方を結ぶ道路である東山道(とうさんどう)や下野国府(しもつけこくふ)が整備され、都賀郡(つがぐん)には下野国分寺・尼寺が建立されました。下野薬師寺は、国立寺院として、平城京の七大寺(しちだいじ)と比肩する東国一の巨大な寺に改修されました。
当時、相次ぐ政変や皇位継承問題の影で、弓削(ゆげ)の道鏡(どうきょう)という僧が法王に任じられるという変則的な政治形態も生まれました。道鏡は権勢を振るいましたが、後ろ盾であった称徳(しょうとく)(孝謙(こうけん))天皇の崩御によって失脚し、下野薬師寺で造(ぞう)下野薬師寺別当(べっとう)として生涯を終えました。