区のおしらせ ちゅうおう(東京都中央区)

令和3年5月21日号

■日本橋蛎殻町一丁目遺跡内
播磨国山崎藩本多家屋敷跡125号遺構出土遺物

区民有形文化財 考古資料
明石町1番6号・築地四丁目15番1号 文化財倉庫

本資料は、平成14年から15年にかけて行われた、約1,024平方メートルの発掘調査で出土しました。これらは、播磨国山崎藩(現兵庫県宍粟市山崎町)1万石の譜代大名、本多家の屋敷跡から出土した陶磁器・土器や土製品、金属製品、銭貨、石製品など96点です。
遺跡地の周辺は、天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入った後、慶長年間(1596~1615)に沼地を埋め立ててできた土地です。以後江戸時代を通じて複数の武家が利用しました。享保17年(1732)、遺跡地は本多家が上屋敷として拝領し、元治元年(1864)まで132年間利用しました。本多家は、いわゆる徳川四天王の一人である本多忠勝の系統から出た分家で、徳川家の縁戚にあたります。
出土遺物のなかで特徴的なものとしてあげられるのが、今回紹介する125号遺構の出土遺物です。125号遺構は、火事の後片付けのために掘られた焼土整理坑で、火事の際生じた多量の焼土が出土しており、焼けた遺物が多く含まれていました。遺構の大きさは、長さ5.04m、幅1.92m、深さ0.64mです。
遺物は18世紀前葉から中葉のもので、山崎藩本多家の屋敷利用時のものです。建材である瓦などが多量に含まれるため、火災により家屋の一部ごとゴミが捨てられたことがわかります。本遺構出土遺物の中には、当時贈答や献上に使用されていた肥前国鍋島藩の御用窯で焼かれた磁器五寸皿が含まれます。10客組という、江戸では他に見られない出土の仕方です。鍋島焼以外にも同形で同文様の高級な器が複数で揃(そろ)いとなったものが多くあり、家財道具が一度に廃棄されたことがわかります。本多家の高級品は、ハレの日や賓客をもてなす器だったのでしょう。
これらの遺物は、中央区にあった武家屋敷の生活を反映したものです。大名としては最小の1万石であるにも関わらず、高級品が揃いで出土し、本多家の格式や生活を知る上で貴重な遺物であり、中央区の歴史を理解する上でも重要な考古資料です。

(中央区総括文化財調査指導員 仲光克顕)