広報しんしろ ほのか(愛知県新城市)
令和5年10月号
■新城の能のはじまり新城にはたくさんの文化があります。その中の一つに能楽があります。毎年、十月には新城駅近くの富永神社で祭礼能が奉納されています。
この祭礼能の始まりは新城城主の菅沼家が能楽を好み、その家臣や町の有力者にも拡がっていきました。新城菅沼家三代目の菅沼定用(すがぬまさだもち)の家督(かとく)相続を祝って、元文元年(1736)に富永神社の社前で能を奉納したことが始まりとされています。以来、連綿(れんめん)と新城の町衆によって守り伝えられています。
▽新城と能楽
祭礼能の始まりは元文元年ですが、それより遙か前の戦国時代に新城で能が行われました。江戸時代の郷土史家でもあった太田白雪が記した『新城聞書(ききがき)』には、天正四年(1576)に奥平信昌が築いた新城城竣工時に二の丸で観世与三郎(かんぜよさぶろう)を招いて演能したとあります。さらに奥平信昌の息子松平忠明が記したと伝わる『当代記(とうだいき)』には天正十四年(1586)七月十日、十一日に観世太夫の演能があり、奥平信昌が鼓を打ち、さらに吉田城から酒井忠次父子も駆け付け、鼓を打ったとあります。また、同年の九月から十月にかけて、徳川家康のお声掛かりで駿河、遠江、三河、甲斐の四カ国のうち、八カ所で勧進能(かんじんのう)が催され、三河国では吉田と新城で行われたという記録も残されています。
能楽にはいくつかの流派があり、その流派の一つに観世流(かんぜりゅう)があります。観世流が能楽を大成させた観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)から始まる流派で、室町幕府の庇護を受けて、京で隆盛を誇っていました。ところが、戦国時代になると、その戦乱を避けて徳川家康を頼り、浜松にやってきました。そうした家康との縁もあって、観世流の宗家による演能が新城であったのでしょう。
その一方、奥平信昌自身も、能に対する関心が深く、大蔵二介入道道知(おおくらにのすけにゅうどうどうち)について鼓を習い、その後、奥義を相伝(そうでん)されるほどの腕前に上達しました。もしかしたら、信昌の能楽への関心は新城城築城の時の演能を見たことで、大きな感銘を受けたのかもしれません。
▽新城で花開く文化
新城は不思議なところです。山間にありながら、能狂言や茶道がとても盛んな地域です。浜松や吉田、岡崎のように大きな町ではないにも関わらず、戦国時代に盛んだった文化が今も連綿と引き継がれています。その始まりにはこうした大きなきっかけがあったのです。
今年も十月六日に富永神社で祭礼能が奉納されます。是非、ご覧いただき、戦国に想いを馳せて下さい。
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