広報紀の川(和歌山県紀の川市)

令和3年9月号

■vol.168 玉垣勾頓宮(たまがきのまがりのとんぐう)・鎌垣行宮(かまがきのあんぐう)
奈良時代から平安時代の紀伊国を通る官道は南海道といい、今日までの研究で、この道は紀の川北岸を通ることが明らかになっています。
紀の川市内には、交通の要所に建てられた紀伊国分寺跡があり、南海道はその前を通っていたとされています。また、天皇の行幸の記録にある「玉垣勾頓宮」と「鎌垣行宮」が8世紀の南海道を探るヒントとなります。
「続日本紀」の神亀元年(724)10月の条に行幸の記録があり、聖武天皇が紀伊国へ訪れたことが記されています。神亀元年2月に即位した聖武天皇は、同年10月5日に平城京を出発し、紀伊国へと旅します。7日には玉垣勾頓宮で宿を取り、翌日には歌枕で有名な和歌浦の玉津島に到着。十数日滞在し、和泉国から都に戻ったようです。
また、この行幸に供奉した者の妻の長歌などが「万葉集」にあります。その歌からも旅の道順が分かります。都から畝傍(現奈良県橿原市)を見つつ、紀伊国と大和国の境にある真土山を越えて、紀の川北岸にある背山を越えて玉垣勾頓宮で宿泊しています。
現在、玉垣勾頓宮跡とされているところには玉垣寺があります。小字は「垣内」といい東隣の小字が「玉垣」となっており、止宿としてこの辺りが使用されたことを今に伝えています。
鎌垣行宮についても、「続日本紀」に記載があります。天平神護元年(765)9月と10月の条に聖武天皇の娘である称徳天皇が紀伊国を訪れ、聖武天皇の行幸とほぼ同じルートで旅をしています。
2つの止宿の場所を描いた資料に「粉河寺四至伽藍之図」があります。江戸時代前期に作成されたものですが、その描写は中世の粉河寺の寺域を示しています。資料の下部には大道が描かれ「玉垣勾頓宮」と「鎌垣行宮」とあることから、その後も何らかの伝承が残っていたようです。
江戸時代の地誌『紀伊続風土記』には「村中東の口より七町許東畑の中に小さき塚型あり、これを鎌垣の行宮の趾といひ伝ふ」とあり、明治41年の官有地元帳には粉河字東前田に「行宮塚」という国有地が記されていることから、この辺りに鎌垣行宮があったと考えられます。
道は、人々の営みや文化などとともに移り変わりますが、様々な資料が私たちに歴史を伝えてくれます。時の天皇やいにしえの人々が行き交った古道に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会 生涯学習課内
【電話】0736-77-2511