新紙幣の肖像となった渋沢栄一、北里柴三郎、津田梅子の3人はいずれも江戸時代末期に生まれ、明治以降に活躍した人物。長崎は当時、大陸や西洋との交流拠点として栄えており、生前の3人も本県を訪れたり、本県出身の名士と深く交わったりしている。その足跡をたどった。

 【渋沢栄一】
 第一国立銀行頭取だった1877(明治10)年、第十八国立銀行の開業直前に上京した長崎の実業家、松田源五郎に書簡を託した。松田は渋沢から開業手続きや経営の心得を学んだ。同行2代目頭取や初代長崎商工会議所会頭、衆院議員も務め鉄道や水道の建設など長崎の近代化に貢献した。
 県長崎学アドバイザーの本馬貞夫氏は「明治期の長崎は九州第一の経済都市だった。渋沢は九州の金融政策を松田を中心に展開しようと考えたのだろう」とみる。書簡は後身の十八親和銀行本店の史料展示室に今も保存されている。
 デジタル版渋沢栄一伝記資料などによると、1900(明治33)年の韓国渡航前後に船で長崎入り。行きは港の埋め立て地を視察し市中を散歩。帰路は料亭「迎陽(こうよう)亭」で休憩後、博多行きの鉄道に乗り換えた。いずれも松田が出迎えた。
 14(大正3)年にも中国訪問前に立ち寄り、三菱の造船所を観覧。長崎高等商業学校で講演し、実業家を目指す学生に「商業道徳の基礎が丈夫にならねば堅実なる発達はむつかしい」などと指南した。後に寄贈した洋書が後身の長崎大経済学部で展示されている。
 市立長崎商業高には揮毫(きごう)した石碑がある。創立25周年記念で同校が依頼し、15(大正4)年に建立された。

 【北里柴三郎】
 北里研究所の中瀬安清氏の論文によると、内務省衛生局時代の1885(明治18)年、大村出身の長与専斎局長から辞令を受け、長崎で流行していたコレラの患者を診察。日本で初めてコレラ菌を検出し、純粋培養に成功した。
 2年後、ウィーンでの万国衛生・統計会議に出席。長崎での体験を踏まえ、日本のコレラ流行の実態について演説した。外来伝染病という証拠を挙げ、コレラ制圧のため全政府が検疫を守り侵入防止に努力するよう訴えた。
 長与は国内で活躍の場がなかった北里に対し、福沢諭吉との縁を取り持ち、伝染病研究所設立を支援。北里が10代の頃、熊本医学校(現熊本大医学部)で指導を受けたのは、長崎府医学校(現長崎大医学部)を設置したオランダ人医学教師マンスフェルトだった。

 【津田梅子】
 女性解放や女子教育の先駆者として、大村出身の石井筆子が生涯の盟友だった。
 大村市歴史資料館によると、華族女学校(現学習院大)で梅子は英語、筆子はフランス語を教えた。2人は88(明治21)年、大日本婦人教育会を創設。98(明治31)年には米国にそろって派遣され、婦人倶楽部(くらぶ)万国大会に出席した。筆子は主宰した静修女学校の建物と跡地を、梅子の私塾女子英学塾(現津田塾大)に格安で譲った。梅子は筆子の洗礼や結婚式にも立ち会った。
 同資料館の山下和秀学芸員は「当初、筆子に対する梅子の評価は手厳しかったが、徐々に信頼関係を深め、互いに実力を認め合う間柄になった」と話す。女性活躍が社会の要請となる中、大村市は筆子をドラマ化するようNHKに要望している。