ケンプス・ランディングの村に入ったダンモア卿は、「武器を持つ意志と能力がある」バージニアの黒人の奉公人や奴隷全員に自由を保証するという宣言を読み上げさせ、「できる限り早く陛下の軍隊」に加わるよう呼びかけた。奴隷となっていた黒人たちは英国王の軍旗のもとに集った。ただし、英国支持者が所有していた者たちは主人のもとへ送り返された。

 こうして新たに創設されたエチオピア連隊は、ほどなく200人ほどの大きさとなった。各人に武器が与えられた一方で、軍事的な訓練はほとんど行われなかった。

「米国の独立に大きく貢献」した宣言

 連隊にとって初めてかつ唯一の戦闘は、12月9日、グレートブリッジの戦いにおいて行われ、英国軍のうち半数近くを黒人兵が占めていた。このときはしかし、大陸軍が勝利を収めた。大きな打撃を被った連隊と英国軍の生き残りは、ノーフォークまで退却することになった。

 大陸軍がノーフォークの街に迫ると、英国を支持する難民と逃亡黒人たちは、港内に停泊していた英国軍艦に我先にと乗り込んだ。1776年1月1日、ひっそりと上陸した英国側の一団は、ノーフォークが大陸軍の拠点となるのを防ぐため、街に火を放った。

 そうするうちにも、ダンモア卿による奴隷解放宣言のうわさは広がり続け、バージニアおよびメリーランド植民地全土から、奴隷とされていたアフリカ人少なくとも1000人が、総督による保護を求めて徒歩や船でやってきた。この知らせによって、英国に対する白人の怒りはさらに燃え上がった。ハーバード大学の歴史家ジル・レポア氏は、独立戦争が始まるきっかけとなったレキシントン・コンコードの戦いよりも、「奴隷に自由を約束したダンモアによるこの行動の方が、米国の独立に大きく貢献」したと述べている。

 ほどなく、発疹チフスと天然痘が、大勢がひしめき合う英国船に蔓延した。これによってとりわけ大きな被害を受けたのは、寒さ、飢え、衛生設備の不足に苦しめられていた黒人たちだった。3月になるまでに、死者は150人以上にのぼった。病気は「信じられないほどの数の人々、とくに黒人たちの命を奪った」と、ダンモア卿は書いている。

 大陸軍によって陸地が占拠されると、ダンモア卿の艦隊はチェサピーク湾をめぐりながら必死に上陸地点を探したが、結局は無駄に終わった。ダンモア卿が我が「浮遊都市」と呼んだ100隻以上の船は、海岸に近づきすぎれば大砲による砲撃を受け、船上の絶望は深まるばかりだった。

「毎晩海へ1人か2人、それ以上の死者を投げ込んだ。艦隊の中に、そうせずに済む船は一隻もなかった」と、ダンモア卿は書いている。かつてはワシントンの個人的な友人だったダンモア卿は、今では白人の大陸軍から暴君と嘲笑される一方で、バージニアの奴隷からは解放者と称賛されるようになっていた。

 英国の援軍は到着しないまま、8月には艦隊は解体を余儀なくされ、ニューヨークとフロリダにある英国の拠点に向けて出航した。こうして、北米における最初の黒人連隊は終わりを迎えた。解放された奴隷たちの一部は、引き続きニューヨークで英国のために戦い、多くは後にノバスコシアに定住した。

「彼らは寒さ、泥、飢え、渇き、病気、貧困に耐えて、訓練も受けずに数にまさる敵と戦わなければなりませんでした」と書いているのは、この逸話を研究している歴史家のチャールズ・キャリー・ジュニア氏だ。彼らの犠牲は、「死の方が、たとえそれがどれほど苦しくとも、束縛されたまま生きるよりはましであること」を証明していると、キャリー・ジュニア氏は述べている。