不思議なのは、失われた町タマンが、どこかのジャングルの奥地に隠されているとか、土砂の下に埋もれてしまったわけではないという点だ。毎年数百万人が、マカオと香港、中国の間を船や飛行機で行き交っているはずなのに、タマンはいまだに発見される気配すらない。

 フロレス氏も金氏も、タマンの正確な位置を示す新しい証拠が見つかったり、最近になって考古学的調査が実施されたという話は聞いていないという。タマンの捜索は、考古学者が土を掘り返して遺跡を探したりしているわけではなく、歴史家による古い手稿、地図、日記などの掘り起こし作業によって行われている。

「現存する当時の資料を一つひとつ細かく調べ、解釈して結論を導き出すという作業です」とフロレス氏は説明する。「けれど、ごくわずかで断片的な記録しかありません。学者は数少ない記号やヒントから解読するしかないので、なかなか意見が一致しないのです」

アルバレスが築いた中国との関係

 アルバレスが中国へ向けて出港した時も、同様の情報不足に直面した。それは、1498年に探検家のバスコ・ダ・ガマがインドへ上陸してからわずか15年後のこと。すでにアジア南部はほとんどが踏査され、ポルトガル人は、インドネシアで香辛料、タイで絹、ミャンマーで象牙を手に入れ、祖国へ持ち帰っていた。しかし、アジア大陸北部の地図は、まだ大部分が白紙の状態だった。

 ポルトガル人にとって、中国は未知の存在だった。かの国が世界で最も進んだ文明国のひとつであり、近代的な都市、洗練された芸術、繁栄する商業、大規模なインフラが既に存在していたことなど、知る由もなかった。だが、中国と巨大な交易の機会があるらしいということは感じ取っていた。1511年、ポルトガルがマレーシアの都市マラッカを征服したのち、ポルトガル王マヌエル1世は、現地の人々から中国について知っていることをすべて聞き出すよう命じた。

 アルバレスが船でマカオの近くまで到達すると、外国人が中国に上陸するには明の正徳帝の許可が必要であると知らされる。外国の商人は、珠江の河口にある島でのみ中国と交易することが認められていた。

 そこでアルバレスは、タマンに拠点を築いた。中国との交易は成功し、利益を上げた。ポルトガル人はワインや香辛料を売り、磁器や真珠、薬草、織物を買った。

 交易品だけでなく、貴重な知識も手に入れた。ブラガの本によると、アルバレスは広東やタイ、インドネシア、マレーシアの商人との会話から、中国の文化、宗教、金融、軍隊について学んだと書かれている。マヌエル1世にとって、情報を得ることは貿易協定を結ぶのと同じくらい重要だった。また、平和な関係を維持することも重視した。明の大帝国を相手に戦争をするつもりは、ポルトガルには全くなかった。

数年で消えたタマン

 アルバレスは中国人に対して、おおむね慎重に、礼節をもって接していたが、同胞の中には違った考えを持つ者たちもいた。タマンに拠点が置かれてから6年後、ポルトガル人と中国人の良好な関係にひびが入る出来事が起こった。ポルトガルから、シマオ・デ・アンドラーデ率いる船隊が台風のように南シナ海に現れたのだ。

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