ラ・ラグナ大学のアントニオ・テヘラ・ガスパール氏は、紀元前25年から西暦25年の間にローマ帝国に反乱を起こして島流しにされたベルベル人が、最初の住人だったのではないかと考えている。

 そして彼らを追放したのは、ローマ帝国の庇護を受けていたマウレタニア王ユバ2世だという。多くの歴史家は、カナリア諸島を発見したのはこのユバ2世であるという意見に同意している。ユバ2世はローマで教育を受け、クレオパトラとアントニウスの娘クレオパトラ・セレネを妻とした。博物学者である大プリニウスの著書「博物誌」によると、今は失われたユバの年代記に、紀元前46年にユバ2世が「幸運の島」へ探検に行ったことが記されているという。

 この時初めて島々に名がつけられ、そのうちの一つを、ユバはカナリア島と呼んだ。それぞれの島の自然的特徴についても記述があったが、「人について何も書かれていなかったとしたら、そこに人は住んでいなかったということです」と、テヘラ・ガスパール氏は言う。だがそれから100年も経たないうちに、ローマは反乱者たちを島へ送り込む。島には何もなかったため、ローマが資源や富を求めていたわけではないと、テヘラ・ガスパール氏はみている。

答えはまだ出ていない

 だが、カナリア諸島の小さな島ロボス島で2012年に陶器の欠片が発見されたことから、開拓者が以前から天然資源を求めて島を度々訪れていたのではないかという仮説も出始めた。他にも、土地のものではない素材で作られた鍋やランタン、釣り針、銛など、地中海西部の交易ルートでよくみられる道具が出土している。

 同じ場所で貝の堆積物も発見されており、ローマ皇帝だけに献上された貴重な紫の染料の材料となる貝がここで採られていたのではないかとも考えられるようになった。季節労働者たちが島に一時的に滞在し、この貝を採っていた可能性もある。

 ロボス島の遺跡を調査している考古学者のマリア・デル・カルメン・デル・アルコ氏は、「紫の染料を作る作業場があったということは、島がローマの影響の範囲内にあったことを示しています」と指摘する。

 さらに、大プリニウスはローマ時代以前に既に島に人がいたと言及しており、放射性炭素年代測定でも、テネリフェ島のいくつかの遺跡は紀元前6世紀のもので、ラ・パルマ島のものは紀元前3世紀のものだという結果が出ている。「アフリカ大陸に最も近い島から西へ向かって順番に人間が到達していったのだとすれば、納得できます」と、ホゼ・ファルージャ氏は言う。

 一方、遺跡の年代測定は確定的ではないとする立場の学者もいる。また、テネリフェの自然考古学博物館長のコンラド・ロドリゲス氏が指摘するように、島で見つかったミイラや遺骨のなかに、西暦4世紀よりも古いものはない。いずれにせよ、初期の島民たちの起源が明らかになったことで考古学調査が再び活気づいている。この先、さらに新たな証拠が出てくるかもしれない。

 洞窟の中でヘッドランプを消すと、静寂が私を包み込んだ。答えを探してここへやってきたが、疑問はまだ完全に解決されたわけではない。それを知ったことが、この旅の成果だ。案内してくれた島民らが、古い陶器を取り出した。グアンチェ族がかつて、契約を結ぶ際に交わした杯に似ている。そして私にこう質問した。この洞窟の場所を誰にも言わないと誓うか?

彼らと、この洞窟に数百年間すみ着いている魂を前にして、私は答えた。もちろん、誓うと。

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