8月9日「長崎原爆の日」を前に、長崎市の県立長崎図書館郷土資料センターで「戦争・原爆と長崎の文学」展が始まりました。長崎ゆかりの著者が記した文学資料およそ80点が展示されています。

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取り上げられている1人、自由律俳人の松尾あつゆきさん。
県内に住む孫の協力で作品や日記などが紹介されています。

1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された時、あつゆきさんは41歳でした。自身は爆心地から4キロほど離れた大浦の職場にいましたが、家は爆心直下となった城山にありました。

4歳の長男と7か月の次女は爆死。
大やけどを負って倒れていた12歳の長男も、翌日目の前で亡くなりました。あつゆきさんは3人の子どもに自ら火をつけ火葬しました。

《すべなし地に置けば子にむらがる蝿》

《あわれ七ヶ月のいのちの、はなびらのような骨かな》

妻・千代子さんも被爆5日後に他界しました。
8月15日、あつゆきさんは今度は妻に火をつけました。
ラジオから君が代が聞こえ、涙がとめどなく流れたといいます。

《炎天、妻に火をつけて水のむ》

《なにもかもなくした手に四まいの爆死証明》

《涙かくさなくともよい暗さにして泣く》

15歳の長女は、学徒報告隊として動員されていた三菱兵器製作所茂里町工場で被爆、顔や首・両手に大やけどを負ったものの生き延び、あつゆきさんは長女と2人で佐々町に転居。45歳の時には長野県に移住し、高校の教師をつとめ、定年後に長崎に戻りました。

寡黙だったというあつゆきさん。
生前、原爆について周囲に語ることはほとんどありませんでしたが、生涯に渡って詩は作り続けました。

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1967(昭和42)年
《わが傷はわが舐めるほかなしけもののごとく》

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1971(昭和46)年
《子のほしがりし水を噴水として人が見る》

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1971(昭和48)年
《ゆるせ子のゆきし日の暑さとて水のむ》

被爆30年を迎えた1975年、NBCのインタビューに松尾あつゆきさんはこう語っています。

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「私も30年の間には子供を亡くしたという悲しみはずっと付きまとっております・・・毎日頭を離れたことはないから、30年目50年目という区切りはつけられないんですね。ただ少し子供についての考え方が変わってきました」

「初め頃は子供は遠い所に行ってしまってもう帰らないと、はるかな彼方にいるという感じでしたが、こちらが段々年を取ってくると子供との差が、隔たりが無くなってきて、もうそのうちにお前達と一緒になるぞ、と。お前と俺との違いは墓石の内側にいるか外側にいるかという、それっきりの違いで、似たようなもんだと、そんな風にまた近くへ戻ってきたような感じを持っていますね」

「もうこうなると悲しむとか悼むとかそういうことでなしに…親愛の情みたいなのがまた新たに沸いてきたと、そんな感じになります」

1983年10月、79歳で生涯を閉じました。

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静かで深い愛情と無念、すべてを破壊する原爆と戦争への憤りが、優しく自由な言葉から伝わる松尾あつゆきさんの言葉。

「戦争・原爆と長崎の文学」展は8月25日(日)まで長崎県立長崎図書館郷土資料センターで開かれています。

【松尾あつゆき(本名:敦之)さん】1904年〜1983年没
長崎県北松浦郡佐々町生まれ。英語教師。
24歳の時、自由律俳句「層雲」に入門。
23歳の時に結婚し4子に恵まれた。