◆全盲のシンガーが専業に
「東京2020パラリンピック」(コロナ禍のため開催は2021年)の開会式で国歌を独唱した全盲のシンガーソングライター・佐藤ひらり(22)が、3月末に武蔵野音大(東京・江古田)作曲コースを卒業し、専業アーチストとしての道を歩み始めた。

――卒業によって気分は変わりましたか?

佐藤ひらり(以下、ひらり):はい。5歳のときから音楽を始めましたが、大学卒業まではずっと学業優先でしたので。これからは曲づくりにたくさん時間が割けると思っています。それと、今後は自分で進む道を切り拓いていかなくてはならないんだとも感じています。

――大学で得られたものは大きかったでしょうね。

ひらり:ええ。今まで知らなかったコードを覚えられたり、音楽史や作品の背景が学べたりで、とても勉強になりました。いろいろな方とも出会えました。実は高校(筑波大学附属視覚特別支援学校の高等部)のときには、大学には入れないんじゃないかとも思ったんですが、オープンキャンパスで私のCDを聴いてくださった先生が「うちの学校に来ないか」って言ってくださったんです。

◆音で楽しめる玩具や楽器を母親から

 ひらりは視神経低形成により、生まれつき全盲。このため、母親の絵美さんは幼児のころから音で楽しめる玩具や楽器、CDなどを与えた。それらに対し、ひらりは強い関心を示した。

 5歳のとき、保育園の電子ピアノの自動演奏から故・美空ひばりさんの『川の流れのように』が流れてきた途端、顔つきが変わる。それを見逃さなかった保育士が、ひばりさんの歌を何曲も聴かせた。ひらりは瞬く間にひばりさんに魅了される。

――当時、ひばりさんの作品が理解できましたか?

ひらり:理解できたかどうかというより、ひばりさんの歌に引き寄せられたという言い方が近いと思います。心奪われました。

――その後、練習を積み、人前で歌うようになったのですね?

ひらり:はい。最初は高齢者養護施設でした。
 
――慰問ですね。反応はどうでした?

ひらり:ひばりさんの歌や童謡を歌わせていただいたところ、おじいちゃん、おばあちゃんたちがとっても喜んでくれたんです。「上手だったよ、ありがとう」「また来てね「って。このときの「ありがとう」のお陰で今も音楽を続けられています。

 感謝の言葉は幼いひらりを感激させた。もとから絶対音感の持ち主で、歌声も澄んで伸びやかだったが、練習により熱が入るようになった。

 その努力が実を結び、9歳だった2010年、障がいのあるミュージシャンたちがその技量を競い合う「第7回ゴールドコンサート」で歌唱・演奏賞と観客賞をダブル受賞する。史上最年少での快挙だった。

 歌った作品は『アメイジング・グレイス』。不当極まりない差別を行ってきた黒人奴隷商人が牧師に転じ、過去への後悔と神への感謝を歌った賛美歌だ。聴衆からは割れんばかりの拍手が起こり、審査委員長の湯川れい子氏(88)らが絶賛した。

――どんな気持ちでしたか。

ひらり:そのときは賞を取りたいと思っていたわけでは全然なくて、だから緊張もせず、「行ってきまーす!」という感覚で歌ったら、思いも寄らず賞がいただけまして。聴いていただいた皆さんに喜んでいただけたので、とても嬉しくなったことをおぼえています。

◆東日本大震災が起きた10歳で曲を自作

佐藤ひらり ますます歌うことが楽しくなっていた10歳のとき、東日本大震災が起こる。このとき、初めて自分で作品をつくった。書くまでもないが、2011年のことだ。

――この作品がファーストシングル『みらい』?

ひらり:はい。テレビとラジオが伝える音声によって、被災地が想像もつかないような状況になっていることが分かり、その後、いろいろな方が復興に向けた作品をつくり始めたことを知って、私も何かできないかと思い、つくったんです。

――曲づくりの方法は知っていたんですか?

ひらり:いいえ、作詞も作曲も分かりませんでしたから、旋律や言葉が思い浮かぶたび、母親に記録してもらったんです。それを何度も直しました。何か出来ないかという思いだけでやりました。

♪心の目を開いたら 明るい未来が待ってるから 過去、現在、未来 みんな歩いてゆけるよ――『みらい』に2度に渡って登場するサビのフレーズだ。

ひらり:まず、過去、現在、未来という言葉が浮かびました。これまでも今も、この先も、必ず繋がっていると思ったんです。

◆東京パラ五輪で国家を独唱

 ひたすら被災者を励ます内容だった。それが被災者でなくても胸を打たれると評判になる。CD化されると、その収益は震災遺児に寄附された。

 12歳だった2013年には米国ニューヨークの「アポロシアター」での音楽イベント「アマチュア・ナイト」に挑戦し、ウィークリー・チャンピオンを獲得。20歳だった2021年の「東京2020パラリンピック」開会式で国歌を独唱したのは記憶に新しい。

――パラリンピックで国歌を歌うことが夢だったそうですね?

ひらり:東京での開催が決まった2013年から、ずっとそうでした。あの場で歌うことはそれまで私を支えてくれた人、応援してくれた人への恩返しになると思ったものですから。

 障がいを持つシンガーは数多いので、簡単にかなう夢ではなかった。しかし、絵美さんの教育方針もあり、ひらりはこの夢をあえて公言する。夢を常に意識したほうが、自分の成長にプラスになると考えているからだ。

ひらり:オーディションがあり、ほかにも有力な方がいたのですが、最終審査当日の歌によって、満場一致で私に決まったそうです。

 歌った曲はやはり『アメイジング・グレイス』だった。

 開会式はコロナ禍によって無観客だったものの、各国の記者たちから大きな拍手が起こる。式をテレビで観ていたXのユーザーからも賞賛の言葉が相次いだ。

「これまで聞いたどの声より凄くきれいな声!」(2021年8月24日、@Nana01sp)、「全盲でもこんなに素晴らしい歌手がいらっしゃるなんて、日本のエンターテイメントの実力を世界に見せられましたね」(同26日@Hu2XErDcx4cF4RC)。

◆テクニックよりも心を込めて

――式で歌っているとき、どんな心境でした?

ひらり:日本の大切な歌をうたわせていただいたので、珍しく緊張しちゃいました。

――ほとんど息継ぎせず、一気に歌い上げたことが評判になりました。肺活量が凄い?

ひらり:いいえ、それほどでも。分からないように息継ぎをちゃんとしていました(笑)。それと、松任谷由実さんのピアノなどを担当なさっている作曲家で編曲家の武部聡志さんがピアノ伴奏をしてくださったのですが、私が歌いやすいように弾いてくださったんです。

 開会式後のSNS上には「涙が止まらなかった」という言葉も並んだ。ひらりのコンサートに行くと、やはりハンカチで目頭を押さえている観客が目に付く。

ひらり:私はテクニックとかを固めるのが苦手なので、心をしっかり込めて歌おうと思っています。だから伴奏をお願いする方に「リハーサルと雰囲気が違ったね」と言われるくらいなんです。

◆スティービー・ワンダーのような存在に

――次の目標は何ですか?

ひらり:スティービー・ワンダーさんのような存在になりたいですね。スティービー・ワンダーさんやレイ・チャールズさんの歌を聴き、「この人は目が見えないんだな」って意識する人は誰もいませんよね。私もそうなりたいんです。そうなれたら、私だからこそ言えることが増えるんじゃないかなと思っているんです。世の中には『もっと目の見えない人に相談してつくってくれたらいいのに』という建物などがたくさんありますからね。

――スティービー・ワンダーの魅力とは?

ひらり:歌がやさしさと力強さのどちらも備えているところですね。人間性にも惹かれます。スティービー・ワンダーさんは子供のとき、ご兄弟と一緒に家の屋根の上に登って遊んでいたところ、落ちてしまい、お母さんから叱られたそうなんです。そのとき、スティービー・ワンダーさんは『なんで、みんなと一緒に遊んじゃいけないんだ。目が見えないと何がいけないんだ』って、お母さんに憤りをぶつけたそうです。私もそれぐらい障がいと関係なく生きていきたいという思いを抱いています。

――ほかにもやりたいことはありますか。

ひらり:小さいころ、目が見えないから行けない場所がありました。だから、誰もが集まれる場所をいつか自分でつくりたいと思っています。ネット配信やラジオもやりたいですね。

――歌う目的は?

ひらり:やはり5歳のときにおじいちゃん、おばあちゃんからいただいた「ありがとう」が嬉しかったからですね。それによって、音楽は私の体の一部になり、なくてはならないものになりました。

◇佐藤ひらり 2001年5月28日、新潟県三条市生まれ。筑波大学附属視覚特別支援学校の高等部に入学と同時に三条市から上京。2024年3月、武蔵野音大総合音楽学科作曲コース卒。イタリアでの単独コンサートやネパールでの復興支援コンサートなどにも出演。これまでにリリースしたCDは『expect』などシングル2枚、『こころのうた』などアルバム2枚



【高堀冬彦】
放送コラムニスト/ジャーナリスト 放送批評懇談会出版編集委員。1964年生まれ。スポーツニッポン新聞東京本社での文化社会部記者、専門委員(放送記者クラブ)、「サンデー毎日」での記者、編集次長などを経て2019年に独立