世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
 書籍というのは不思議な媒体である。限定された人間だけが見られるわけではなく、手に入れれば誰でも読むことができる。しかし世の中の大半の人はどんな本が出ているかを知らない。なので普通に生きていたら絶対に出会うことのない人が体験した稀有な話も、多くは知られないまま埋もれていくことになる。

 そんな「公開されているのに、ひっそりと過ぎ去っていく」新刊の中に、また一冊すごい内容の本が出てきた。それが今回紹介する『死刑囚の理髪係』である。

 著者のガリ氏はかつて東京で美容室に勤めていたが窃盗事件を起こして逮捕され、東京拘置所内に服役した。所内で彼に与えられたのは収容者たちの髪を切る「理髪係」という仕事だった。
 東京拘置所には刑が確定するのを待つ未決勾留者の他に、死刑執行を待つ死刑囚も服役しており、ガリ氏は彼らの理髪も担当することになった。この本はガリ氏が拘置所内で数々の有名犯罪者たちの理髪を担当したときのエピソードや、そこで見えてきた死刑制度のことを書いた手記である。

 死刑囚はあるとき突然告げられる死刑執行を待つ身のため、拘置所内でこれ以上刑期が延びても何も怖くない、と考えられている。雑談中に「実はまだこんな犯罪をしていた」というような告白をすることで、意図的に刑執行を延ばそうとする受刑者もいるという。そんな状況を鑑みて、拘置所内の理髪室ではバリカンとすきバサミは使えても、通常のハサミは用意されない。

 ガリ氏が最初に担当した死刑囚は秋葉原連続通り魔事件の加藤智大だった。拘置所内で清掃係を務める受刑者仲間に加藤のことを聞くと、「加藤は神経質でちょっとした物音で不機嫌になり、大声出して暴れるから気をつけてください」と告げられ、ガリ氏は大きな不安を抱えたまま理髪をすることになる。
 加藤は理髪中、練習用のマネキンのように、身じろぎせずに切られていたが、あるときから鏡越しにずっと髪を切るこちらを見ていた。言葉はない。 後ろからは刑務官が監視しているが、何かを注意したりすることはない。ここでは何が起こるかわからない。
 結果的には何事もなく作業は終了したが、ガリ氏はずっと極度の緊張状態の中で手を動かすことになった。

 ガリ氏はその後、何回か加藤を担当したが、あるときバリカン操作を間違えて耳の後ろを切ってしまう。理髪師としては致命的なミスだ。その先どうなったか、ぜひ本書を読んでほしい。

 拘置所内には大勢の人間が収容されており、その中には秋葉原事件の加藤の他、あさま山荘事件で連合赤軍の主犯格だった坂口弘、SNSで自殺願望者に連絡し座間市の自宅アパートで9人を殺害した白石隆浩、相模原の知的障害者施設で26人を殺傷した植松聖など、数々の有名事件の犯人である死刑囚も含まれている。

「飲尿療法を信じている」と噂され、強烈なアンモニア臭をただよわせている死刑囚。髪にも尿を塗っているらしく、櫛で髪を上げただけで臭いがさらに強くなる。
 昔のヤクザ映画に出てくるような、ピンピンに尖った角刈りにするよう要求し、少しでも納得いかないと「下手くそ」「お前なんかに触られたくねえ」などと暴言を吐く死刑囚。
「ケツの毛が気になるんで、ついでにカットしてくれませんか?」と言う死刑囚。
 拘置所で死刑執行を待つ身でありながら「私はここにいられて幸せ」と語った死刑囚。
 明るく雑談を求めてくる死刑囚。死刑囚と理髪係の会話は禁じられているが、死刑囚と刑務官は普通に会話ができる。その二人の会話が、まれに理髪係に回ってくるらしい。そうすると刑務官次第で会話に参加できるという。

 長く理髪係として数多くの受刑者たちと接するうちに、同じく服役する受刑者でありながらガリ氏は計り知れない人間の心の闇に戸惑い、実際には数々の優遇を受けられる死刑囚が存在する現行の不完全な死刑制度に疑問を持つようになる。死刑判決を受け、拘置所内で執行を待つ日々を送るうちに生気を失っていく者がいれば、支援者や家族から多数の差し入れをもらって悠々自適に過ごす者もいる。その疑問が出所後にこういった本を書くきっかけになった、とガリ氏は語る。

「塀の向こう」という言葉に象徴されるように、私たちは罪を犯して逮捕・服役した場合の生活については普段知る機会がない。ぼんやりとしたイメージを抱いたまま過ごしている。なのでつい数年前まで実際に拘置所にいたガリ氏の語る死刑囚たちや拘置所内の様子の描写はリアルで、普段見えないだけでこういう世界があるのだなと強く教えてくれる。

 美容師や理容師をしている人と話をすると「お客さんが喜んでくれることがうれしい」と言うことが多い。最初、それは外向きの美辞麗句として言ってるのではないかと疑っていたが、「自分が髪を切って見た目をよくすることでお客さんの表情や態度が明るくなると、本当にこの仕事をやってよかったと思う」と知人が言っているのを聞いて、本当にそうなのかもしれないと思うようになった。
「犯罪者が犯罪者の髪を切る」異様な仕事本であるが、語られるのはわかるようでわからない、「人間」そのものである。

評者/伊野尾宏之
1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり

―[書店員の書評]―