大関昇進が決まった朝乃山が日刊スポーツに手記を寄せた。16年春場所で初土俵を踏み、丸4年で夢だった大関に昇進。高砂部屋の伝統をしっかりと胸に刻み、口上でも述べた「一生懸命」を貫いて駆け上がってきた。富山県出身では太刀山(元横綱)以来111年ぶりとなる新大関が、感謝の思いや今後の夢などを記した。

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みなさまの応援、支えのおかげで、大関に昇進することができました。春場所は史上初の無観客開催で、声援がなかったことは正直寂しかった。それでも、テレビなどを通して全国から応援してくれる人がいると思えば頑張れた。本当にありがとうございました。角界入りしてから夢だった地位に上がれたが、もう1つ上の番付がある。これからさらに精進していきます。

座右の銘にしているのは「一生懸命」。誰でも意味が分かる簡単な言葉だが、すごく重い言葉だと思う。土俵に一生、命を懸ける。その決意ができたのはプロに入った時。人生は1度きり。1度しかないチャンスで、できるところまでやろうと思えた。そうすると稽古も頑張ることができた。

「一生懸命」の思いが強くなったのは16年九州場所千秋楽。その日の部屋は独特な雰囲気だった。部屋のみんなで朝赤龍関(当時十両、現錦島親方)の取組をテレビで観戦。幕下希善龍さんとの「入れ替え戦」に負けて幕下陥落が確実になり、兄弟子たちがガックリと落ち込んでいた。もちろん部屋頭が負けて喜ぶ人はいないけど、それまでの負けと明らかに違っていた。

その意味を知ったのは、翌日の新聞だった。高砂部屋は1878年(明11)の部屋創設から138年間にわたって、十両以上の関取を輩出し続けていた。その最長記録が途絶えることになった。千秋楽パーティーで朝赤龍関は「自分のせいです」と泣いていた。師匠(高砂親方=元大関朝潮)は「頑張るしかない。新しい高砂部屋の歴史をつくっていこう」と下を向かず、涙を見せずに言っていた。グッとくるものがあった。

16年の九州場所で自分は東幕下14枚目だった。その年3月の春場所で初土俵を踏み、1年で関取になることを目標にしていた。翌17年の春場所で新十両に昇進し、目標を果たした。ただ初場所は7戦全勝で幕下優勝。もしも1場所早く、九州場所で全勝だったら、関取が途絶えることはなかったのに−。皮肉なことに、伝統が途切れたことで初めて高砂部屋が「名門」と言われる本当の意味を知ったと思う。同時に自分が「名門」の新しい歴史をつくりたいという気持ちが出てきた。支えてくれる人のために−。こういう感情は初めてだった。高砂部屋に入ったから、今の自分がある。

夢の大関昇進だが(故人で母校の富山商高元監督)浦山先生の夢は、自分が横綱になること。横綱になった時が「十分咲き」なら、大関に上がっても、まだ「五分咲き」だと思う。まだ自分の相撲人生は道半ば。浦山先生や今年の初場所中に亡くなった伊東監督(母校の近大元監督)、高砂親方や高砂部屋のためにも、ここからさらに「一生懸命」に土俵を務めたい。