パリオリンピック(五輪)開幕まで1カ月を切った。

バドミントン男子シングルスの西本拳太(ジェイテクト)は、29歳にして初の五輪に挑む。23年5月から約1年に及んだ五輪選考レースでは27大会に出場し、日本勢2番手となる11位。奈良岡功大(NTT東日本)とともに、1カ国最大2枠の男子シングルスのパリ切符を手にした。

元世界ランキング1位の桃田賢斗(NTT東日本)とは同学年にあたる遅咲きの“ダークホース”は、雑草のように力強く根を張り、道を切り開いてきた。五輪では日本勢同種目初の金メダル獲得を目指す。

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■「終わりかも…」カナダでこぼした弱音、返された言葉

17年7月。カナダ・アルバータ州のカルガリー。

カナダ・オープン(OP)に出場していた西本は、壁にぶつかっていた。「その時、あまり勝てていなくて。ちょっと悩んでいて」。同年春のドイツOP、イングランドOPと2大会連続で初戦敗退。以降も16強に進めない大会が続いていた。

「もう終わりかもしれんな」

カナダOPの合間の食事中。珍しく弱気になっていた。

その時だった。ともに食事を囲んでいた桃田から、こう言われた。

「いや、お前はそんな簡単に終わらないだろ」

何げないやりとりだったが、心に深く刺さった。

「お互いにライバルでもあるので、そこからは多くを語るというのはなかったですけど。でも僕自身、あの時そう言われたことで救われところが大きかったです」

同じ1994年生まれのライバル。西本の誕生からわずか2日後に生まれた同学年の言葉は、その後の競技人生の指針となった。

■一時は世界ランク9位も「甘い気持ちあった」

そのカナダOPで4強入りすると、息を吹き返していった。同年10月のフランスOPでは準優勝。国際大会で上位に進むことも増え、19年には世界ランキングも自己最高の9位にまで上昇した。

20年からはトナミ運輸を退社してフリーとなり、岐阜で1人暮らしをしながら練習漬けの日々を送った。「平日は毎日、1日練習でした」。ダブルスの福島由紀、廣田彩花組ら女子選手に混ざって羽根を打った日もあった。

覚悟を込めた決断ではあったが、なかなか結果につながらない。東京五輪の切符はつかむことができなかった。

「世界9位にいって、このままなら五輪に行けるだろうと思いながらやっていたのがダメでした。甘い気持ちがありました」

ただ、ここで終わらない。東京大会をサポート役の立場で終えると、さらなる高みを目指し、パリへと動きだした。

■1年で27大会に出場「自分のために」

22年からは愛知・刈谷市を拠点とするジェイテクトへ加入。石井裕二副部長兼総監督らと相談を重ね、パリ五輪へは「体の強さ」を最大限に生かす戦略を立てた。23年5月から約1年に及ぶ五輪選考レースでは、数多くの大会へ出場すると決意。「僕の1番の長所は体の強さ。多くの大会に出ることによって、ほかの選手たちの焦りにつながるのでは」と世界中を飛び回った。

23年8月の世界選手権では自身初の8強入り。同11月には2大会連続で準優勝を収め、着実にポイントを重ねた。最終的には約1年で27大会に出場した。

「周りの方からは『そんなに出なくていいのでは?』と言われることもありましたが、やらないよりは、自分のためにやりきりたいと思っていました」

選考レースは日本勢2番手の11位でフィニッシュ。同12位以内の選手の中では、最も多くの試合に出場した。苦しみながらもコートに立ち続け、その先に初の五輪は待っていた。

■「踏まれても、踏まれても」雑草魂で輝き放つ

お前はそんなに簡単に終わらないだろ−。

桃田にそう言われた日から、7年が過ぎた。

西本の座右の銘は「雑草魂」だという。

「同級生に桃田選手がいたということもあって、僕自身は自分をエリートではないと思っています。ただ、ここまでコツコツ続けてきたという自負はある。踏まれても、踏まれてもじゃないですけど、それをはねのけて、今はこうしてできています」

5月21日。日本代表12人が登壇した会見で、西本は言った。

「金メダル目指して、ダークホースになりたいと思います」

踏まれても、踏まれても。夢舞台でも、簡単に終わるわけにはいかない。【藤塚大輔】

◆西本拳太(にしもと・けんた) 1994年8月30日、三重県伊勢市出身。8歳から競技を始め、埼玉栄、中央大を経て、17年からトナミ運輸。20年からはフリーで活動し、22年からジェイテクトへ加入。16年全日本総合選手権で初優勝し、19年に世界ランキング9位(自己最高)。22年ジャパン・オープンでワールドツアー初優勝。23年世界選手権8強。座右の銘は「雑草魂」。身長180センチ。血液型B。