もう一人の「日本マラソンの父」 金栗四三の盟友・岡部平太 九州コンビで名選手輩出

もう一人の「日本マラソンの父」 金栗四三の盟友・岡部平太 九州コンビで名選手輩出

戦後の日本マラソン界の草創期を支えた金栗四三(左)と岡部平太 日本初の陸上競技の国際試合となる「日仏対抗陸上競技大会」前に選手と記念写真に納まる岡部(左から3人目) 戦後、日本で初めて公式に掲揚された日章旗=福岡県糸島市の伊都文化会館 岡部の教え子の一人、国士舘大の大澤英雄理事長

 NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜」の主人公として今年、大きくクローズアップされる金栗四三。しかし、その「日本マラソンの父」を突き動かして科学トレーニングを導入し、コーチとして次々に名選手を生み出した盟友がいたことは、あまり知られていない。明治、大正、昭和の激動期に波瀾(はらん)万丈な生涯を送ったその男の名は、岡部平太という。

■科学トレーニングを日本で初めて導入

 インターバル走、高地トレーニング、選手の疲労回復を促す検査や食事の研究−。現在のマラソンでは当然のように行われる科学的な強化法を、初めて日本に導入したのが岡部平太だ。1950(昭和25)年、金栗四三に提案して「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成。数々の名ランナーを育てた。

 結成の翌年、早くも成果は表れた。指導を受けた田中茂樹がボストン・マラソンで日本人初優勝を果たしたのだ。その後も53年山田敬蔵、55年浜村秀雄、65年重松森雄と、薫陶を受けた選手たちがボストンを制した。

 会の結成当時、マラソンに限らず、日本スポーツ界は精神論や根性論に占められていた。それに反するような指導の連続。田中は参加当初の困惑を「不思議な練習が多かった」と振り返る。

 400メートル、1500メートルなど距離を決め、緩急をつけて走らされる。日本では浸透していなかったインターバル走だ。岡部から「マラソンはスピードだ」と言われたのにも??? 「今では当然だが、その頃、そんなことを言う人はいなかった」。合宿では走る前後の血液や尿を採取し、疲労度を計測。60年ローマ五輪でアベベ・ビキラ(エチオピア)が優勝すると、岡部は高地での生活が心肺機能を高めたとする説を確かめるため、単身で現地へ飛んだ。

■スポーツ万能 あらゆる競技を貪欲に

 1891(明治24)年、福岡県・糸島半島の芥屋村で生まれた。幼い頃からスポーツ万能で、講道館柔道の創設者、嘉納治五郎に師事して上京。東京高等師範学校(現筑波大)を経て、米国で科学トレーニング理論を習得した。金栗とは同い年で、嘉納を師と仰いだところも同じだ。

 柔道8段、剣道5段。相撲、陸上競技、サッカー、野球、競泳、テニス、ラグビー、バスケットボール、ボクシング、スキー、スケート…。あらゆる競技を貪欲に学び、コーチを歴任した。米国留学中はシカゴ大のアメリカンフットボール部で活躍し、日本に初めて紹介した人物でもある。金栗は「これほど多岐にわたるスポーツを経験した人物は他にいない」と語っている。

 戦時中は満州(現中国東北部)に渡って「満州体育協会」を創設。理事長として1928(昭和3)年、日本初の陸上競技の国際試合となる「日仏対抗陸上競技大会」を開催して勝ち、極東選手権では陸上競技の総監督として優勝も果たした。第1回スピードスケート世界選手権大会でも監督を務め、「満州の雄」として、その名をとどろかせた。

 これほどスポーツ界に大きな功績を残した岡部が「主流」にならなかった。その一因に、相手が誰であろうと自分が納得しない限りは立ち向かっていく反骨精神がある。講道館が米国のプロレスラーに対戦を申し込まれた時、「柔道を世界に広める絶好の機会」と受諾した師匠の嘉納に対し、「柔道がアマチュア精神を失ってしまう」と直言。対立して師の元を去ったことで、表舞台から遠ざかってしまったのだ。

■五輪の舞台には立てず……

 64年東京五輪の陸上強化コーチに就きながら、脳梗塞に倒れ、五輪の舞台に立つことはできなかった。66年に没し、すでに半世紀。その業績を示すものは、岡部が48年の福岡国体時に造った平和台陸上競技場の一角に、ひっそりと立つ胸像しかない。

 金栗がコインの表とすれば、岡部は裏なのだろうか。後に金栗は「私は長い間、マラソンをやって(選手強化など)多少やったこともあるけれど、本当に真剣にやろうと発案して実行したのは岡部」と盟友をたたえた。

■「ここをピースヒルに」…「平和台」の名付け親 マッカーサーに国旗掲揚を直訴

 岡部の成した大仕事の一つに「平和台」の創設がある。岡部がいなければ平和台には野球場も陸上競技場もなく、その後のプロ野球や陸上競技の隆盛もなかっただろう。

 戦後、満州から郷里に引き揚げていた岡部は、福岡市長の相談を受け、人脈を駆使して1948年の「第3回国体」誘致に成功。大会準備委員長を任せられた。

 問題は会場だった。大空襲などで受けた戦争の傷痕が残る街。そこで目を付けたのが、福岡城址(じょうし)の福岡連隊跡地だ。連合国軍総司令部(GHQ)が接収し、進駐軍の住宅建設を計画していたが、GHQ幹部と交渉を重ねてこう訴えた。

 「もう戦争は終わった。ここをスポーツのピースヒル(平和台)にしたい」。その熱意に負けたのか、GHQは土地を返却。岡部は自ら設計図を描き、GHQに借りたブルドーザーで突貫工事を進めた。

 GHQ最高司令官のマッカーサーに直訴し、大会での国旗掲揚も認めさせている。戦後、公の場に日の丸が翻ったのは初めてのことだった。

 実は「平和台」の名称には、深い意味がある。戦争に反対し、スポーツを通じた国際交流に尽力したが、一人息子の平一は特攻隊員として沖縄で戦死した。不戦の誓いと息子への鎮魂−それが命名の思いだった。

■「根性」が嫌い 教え子・大澤氏、理念継ぐ

 岡部は「根性」という言葉が嫌いだった。精神論ではなく、科学に裏付けられた理論による練習こそが勝つための鍵−。その考えは、シカゴ大への留学時にアメリカンフットボールの先駆者、エイモス・アロンゾ・スタッグ教授から学んだ。

 日本サッカー界を先導してきた国士舘大の理事長、大澤英雄も岡部の教え子の一人。指導者の不祥事が頻発する最近の状況を考えるたびに、師の姿が浮かぶという。「きっと岡部先生は激怒しておられるだろう。今のスポーツ界こそ、その理念と生きざまを知るべきだ」と力説した。 (敬称略)

=2019/01/03付 西日本スポーツ=


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