大学野球はプロまでの「執行猶予」?野球が上手いだけ、ではダメなのだ。

大学野球はプロまでの「執行猶予」?野球が上手いだけ、ではダメなのだ。

 少し前にこのコラムで社会人野球・東芝の存続決定について、この国の野球を支える屋台骨であると思うところを記したところ、思いがけず多くの反響をいただいた。

 ならば、「学生野球」はどうなのか?

 その意義は何か? どうしてこんなに長く(東京六大学は2018年で93年目)世の中の支持を得られたのか? 学生野球の“今”は、ほんとのところ、どのような現状なのか?

 新たな興味と疑問が寄せられたテーマについて、私の知る範囲でお伝えしてみたい。

 大学野球のことを、昔から「学生野球」という呼び方をする。私はこの“呼び名”がとても好きなので、この文ではその呼称を使わせていただきたいと思う。

 と言って、別に堅苦しい話をしたいわけじゃない。今の実情をなるべく具体的に、ありのままにお伝えできればと思っている。

高校生が大学の練習に参加するのは、よい事だと思う。

 つい先日のことだ。

 親しくしていただいている高校野球の監督さんのお付き合いで、ある大学のグラウンドにおじゃました。その監督さんが預かる高校生の“練習参加”の日であった。

 この選手は大学に進んで野球を続けてほしい、と監督が願う。ボクはあの大学で野球を続けたい、と選手が想う。では一度、大学の練習に参加させていただけないでしょうか?

 大学にとっても、新たな“人材”とのまたとない接点になるし、選手にとっても、高校野球生活にこの上ない刺激となる。大学のグラウンドにやって来るのは、2年生の冬を迎えた高校生たちがほとんどだ。

 現役の学生野球の選手たちと場所と空気を共有しながら、わずか3年か4年上の大学生たちが、自分たちとは比較にならないほどの充実した心身と野球技術を有していることを体感し、がく然としたり、この先の励みにしたり、一種の“カルチャーショック”を受けて目を覚ます。

「青田買い」などと横目で見る向きもないではないが、私はとてもよい事だと考えている。

大学のグラウンドで高校生が何を感じられるか。

「本当のことを言いますとね、私たちが選手を見ているのは大学2年までなんですよ。3年の春になって出てこられない選手からは、いったん視線を外します。だってその時には、もう1年生、2年生……と、後に2学年入って来てるわけでしょ。そこにも優秀な子はいるわけですから、どうしてもそっちに目が行きますよね、チームを構成するためにも」

 学生野球の、とある監督さんが話してくださった。

「私、そのことを練習参加に来た高校生にも言います。すでにそれだけ厳しい生存競争があることを承知しておいてほしいから。心に響いた子は、ちゃんと準備してきますね。春に入って、すぐに練習についてこられる体を作ってきます。ある意味、学生野球はスタートが勝負なんです。

 でもね、一方で4年になってムクムクっと頭をもたげてくる学生。それも、すごく楽しみなんですよ。私たちの興味からいったん外れてるはずなのに、それでもコツコツ辛抱強く頑張った証拠ですから。でも、そのことは言わないんですよ、高校生にも学生にもね。だま〜って待ってるんです」

大学を、プロまでの「執行猶予」と言った選手。

 では、当の大学生たちはどんな風に自分たちのことを考えているのだろうか。

 以前、学生野球から大騒ぎされてプロに進んだある選手は、大学での野球についてこんな言葉を漏らしてくれたことがある。

「僕にとっての大学野球って、プロへ行く前の4年間の“執行猶予”の時間って言うんですか? 大学野球で学んだこともそんなにないし、ずいぶん遊ばせてもらいましたから……」

 その選手が、プロで自身が描いていたような活躍ができなかったから、こういうことではいけませんよ……などと“戒め”の例として挙げているわけじゃない。

 これもまた、学生野球でボールを追っている青年たちの“本音”の1つなのであろう。

 お叱りを覚悟で申し上げれば、今の学生野球は「玉石混交」である。

「野球がちょっと上手いだけのアンチャン」の存在。

 ある学生野球の監督さんの苦い話が忘れられない。

「私、学生たちによく『最高学府』って話をするんですよ。最高学府に所属しながら野球ができること。考えたらすごいことなんだよ。ありがたいことなんですよ。この前も、そんな話になった。そしたらみんな、ポカンとして聞いてるんだね。アレッと思ってキャプテンに訊いてみたら、実は“最高学府”の意味を知らない。『上のほうの官庁か何かですか……?』だって。やんなっちゃったよ」

 まわりにはウケたが、ご本人は決して笑ってはいなかった。

 再び失礼を承知で言えば、今の学生野球には「野球がちょっと上手いだけのアンチャン」がたくさん存在する。

 ある面、仕方がない。

 戦後、ないしはバブルの時期に全国に「大学」が急増し、それにつれて、高校を卒業した者が当たりまえのように大学に進学するようになった。

 数が増えれば質が落ちるのは、何ごとも世の習いで、いつの間にか「最高学府」という言葉もほとんど聞かれなくなり、言葉がなくなれば、つられて概念も意識も失われる。

「野球だけやってればいい」と思うなかれ。

 先日、わが母校の野球部OBたちの集まりがあった。

 その席上、出席していた現役のマネージャーからこんな発言があった。

「ウチの野球部にも、自分は野球だけやってればいいんだ……という学生もいるようですが、反対に、それだけじゃダメで、社会のいろいろなジャンルで働いているOBからいろいろな話を聞いて勉強したいと考えている学生も結構います。機会を作りたいと思いますので、協力お願いします」

 まず、初めのところがよかった。

「野球だけやってればいい」はNGなんだ。彼らがそこに気づいていることにホッとした。今は野球だけやってればいい……が当たり前になりつつあるのが、悲しい現状である。

 その上で、社会が今どうなっているのか、そうした情報を渇望している学生たちの一面もストレートに訴えている。

 わが母校のことだから自慢しているわけじゃない。手前ミソは承知で、なんだか学生野球のあるべき姿の一端に触れた気がしたので、ご紹介させていただいた。

大学野球の必修科目は、「社会性」である。

 高校生の半分以上は、社会へ出ていく前に大学という“ワンクッション”がある。しかし大学院へ進まない限り、卒業したら社会へ出て行くしかしょうがない大学生にとって、最高学府で学び、身につけなければならない“必修科目”とは「社会性」であろう。

 社会とは何か?

 それは、「人が2人以上いること」と教わったことがある。

 ならば、社会性とは何か?

「人が複数いることを意識できる資質」であろう。

 まず、大学で野球をしている自分がいる。そしてその周囲には、学生野球に励む青年たちに期待を抱きながら見つめ、応援する人たちがいて、学生野球を経験して卒業した青年には、これまた大きな期待を持って社会で迎えようと待っている人たちが必ずいる。

 そのことが見えているのか、そこに思いを馳せながら日々を送っているのか。

「学生野球人」にとっての社会性とは、そうしたようなものではないだろうか。

 学生野球に、野球がちょっと上手いだけのアンチャンの居場所など、あってはならない。

文=安倍昌彦

photograph by Kyodo News

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