山田直輝「自分が甘ちゃんだった」浦和の愛に溺れた4年前と今は違う。

山田直輝「自分が甘ちゃんだった」浦和の愛に溺れた4年前と今は違う。

「あの時は自分が甘ちゃんだったな、と」

 山田直輝は、ちょっとした過去を思い返してそう呟いた。浦和レッズの下部組織で育ち、早くから頭角を現した存在は、昨季まで3シーズンにわたって湘南ベルマーレへ期限付き移籍の延長を繰り返し、今季から浦和に戻った。

 山田と浦和の関係は、少し特別なものがあると言える。彼は、さいたま市に合併する前の旧浦和市で育ち、小学校時代はFC浦和、中学と高校ではそれぞれ下部組織で日本一になった。

 特に、高校3年時に浦和ユースが優勝した2008年の高円宮杯全日本ユース選手権では、決勝で名古屋グランパスの同年代を相手に9−1という鮮烈なスコアで勝利を飾った。

 当時のメンバー表には、今や日本代表に定着した1歳下の原口元気のほか、岡本拓也、濱田水輝、永田拓也、高橋峻希、阪野豊史といった、浦和のトップチームでプレーした経験を持つ選手たちが並ぶ。

 その中心に君臨していたのが山田であり、翌年にはトップ昇格後に試合出場を重ね、日本代表にまで選出された。山田が浦和の中心選手になることは、約束された未来のように感じられていた。

「直輝が埼スタで活躍することを心から願っていました」

 クラブとの関係性は、山田も出席した埼玉スタジアムでの新加入選手発表会見で、山道守彦強化本部長が話した言葉からも垣間見える。

「小さい時から知っているので、やっぱり直輝が埼スタで活躍することを心から願っていました。その逆算で、どうしたらそうなるかな、ということをずっと考えて、彼らと相談してやってきたつもりです。埼スタで活躍するのは本人次第なので、頑張って」

 人によってキャラクターはあるにせよ、クラブの強化責任者が壇上にいる選手を紹介する際に、「頑張って」というエールを送ること自体が、浦和にとって山田がどれほどの存在なのかを示していると言えるだろう。浦和の人たちや、サポーターたちにとっても、似た感情があるはずだ。

浦和在籍時には、どこか甘かったと言わざるをえない。

 それだけに、山田の起用法はその時々の監督に対する批判の種になってきた。トップ昇格時のフォルカー・フィンケ監督が積極的に若手を起用する方針だったことは、山田を筆頭に若いメンバーたちの背中を押した。

 しかしフィンケが去った後、負傷を別にしても、山田自身が常に試合出場に値する存在だったかは別の問題だ。

 例えば1つ、私は彼について「それで良いのだろうか」と思った経験があった。

 山田が前回浦和に在籍した最後のシーズンになった2014年は、ワールドカップイヤーだった。山田はシーズン前半戦で出場機会に恵まれなかったにもかかわらず、中断期間のキャンプに、主力選手と同じように体を休ませてから臨んできた。

 当時の状況からすれば、そのキャンプは後半戦に向けて必死のアピールが必要な場であり、抜きんでたプレーを見せるべきタイミングだった。

 特別待遇が許される立場でなかったことは、出場機会の少ないメンバーを中心で行われたキャンプ中の練習試合の際に明らかになる。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(当時)が「試合に出ている選手より良いプレーをしないのなら、メンバーは変わらないんだぞ」と、報道陣に聞こえるほどの怒声を発したのだ。

 そして指揮官の言葉は現実のものとなり、山田は1年間を通してピッチに立つことがほとんどないままシーズンを終えてしまった。

湘南での3年間で、「やっとプロのサッカー選手」に。

 なぜこんなことを思い出したのかといえば、入団会見で山田が「甘ちゃん」という言葉に加え、「当時は100パーセントでサッカーに向き合っていたつもりでしたけど、それが100パーセントじゃなかったというのを今になって気づいた」と、前回浦和に在籍していた時の自分に言及したからだ。

「湘南の3年間で一番学んだのは、チームを勝たせる責任を負ってプレーさせてもらって、勝ちに対する貪欲さを持ってチームを引っ張ること。やっとプロのサッカー選手として勝つためにサッカーができるようになったので、そこを見てもらえたら。

 していいプレー、してはいけないプレー、ミスではないけどチームにとってマイナスのプレーがあるとか、そういう目に見えない部分をすごく曹(貴裁)さんは教えてくれる監督だった。これはミスじゃないけど、俺にとってミスだと。

(浦和では)それに気づいていなかったですし、上の選手たちがたくさんいて、自分はまだ若手という感覚もあって、チームを引っ張るとかそういうことは考えずにプレーしていた。今になってみると、上の選手たちはこういう責任を負ってプレーしていたんだと、申し訳なかったなという気持ちもあります。寡黙な先輩たちでもあったので、なかなか言葉で表現してくれなかったですけどね」

山田も、浦和も、お互いを諦めなかった。

 浦和は、他クラブから主力級の選手たちを獲得できる立場だ。そこでポジションを争う選手たちが、自らライバルを育てる義務もない。

 しかし湘南でチームを引っ張る立場を与えられ、かつての自分の甘さを感じられるようになった。そして同時に、山田は湘南に対して強い感謝も感じている。

「湘南に行って1年半くらい経ったとき、なかなか自分のパフォーマンスが出せなくて、これだったら浦和に戻ることはないなと諦めかけたことがあって。出ていったときは1年で帰ってくるのが当たり前だと思っていたけど、2年目が終わった時に自分の7〜8割のパフォーマンスが出せるようになった。このチームでもう1年やれば自分のフルのパフォーマンスにさせてもらえると思って、3年目を過ごさせてもらった」

 山道強化本部長の言葉からも分かるように、浦和側もまた「山田を諦めなかった」。昨年には「3年のレンタル移籍というのは異例」という言葉を残したこともある。そこに、下部組織出身で特別な存在だからこそという側面があったのは事実だろう。

27歳、もうエクスキューズはない。

 ユース時代に指導を受けた堀孝史監督が率いるチームに戻る山田には、絶対に達成しなければいけないことがある。それはトップチームで国内の頂点に立つこと。その決意を、山田はこう語った。

「小学校からずっと浦和の地区でサッカーをして、浦和のジュニアユース、ユースで全国優勝しています。トップになってからも絶対にタイトルは獲れるだろうと思っていて、でも、ここまで獲れていない。僕の中で、そのタイトルをこの浦和レッズで獲りたいという気持ちは相当強いです。ユースでお世話になった堀監督が今の監督なので、その思いは更に増しています」

 27歳になった山田は、帰ってきて1年目だから、負傷明けだから、というエクスキューズが通用する年齢でも状況でもない。

 彼が出場機会を争うポジションには、10番を背負う柏木陽介や、日本代表に上り詰めた長澤和輝もいる。だが、彼らの後塵を拝すのが日常になるようでは、中心選手として浦和をタイトルへ導くのは夢物語だ。

 自身もクラブも諦めなかった未来を掴むため、甘さのあった自分に別れを告げた山田には、本当の意味でのプロサッカー選手として浦和で勝負する1年が待っている。

文=轡田哲朗

photograph by J.LEAGUE PHOTOS

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