「俺は走れるようになったんだ!」新潟・早川史哉、白血病との戦い。

「俺は走れるようになったんだ!」新潟・早川史哉、白血病との戦い。

 2018年2月21日。アルビレックス新潟の選手達がキャンプで静岡に滞在している頃、新潟駅に降り立った。午前中は晴れていたそうだが、お昼過ぎから一気に雪が降り出し、到着した頃には新潟駅前は吹雪のようになっていた。

 1台の車が目の前に止まり、その窓が開いた。ひとりの若者が笑顔で「こんにちは」と迎えてくれた。挨拶をして、車の助手席に乗り込むと、そのまま市内の食事処へと向かうこととなった。

 店の個室に案内されると、新潟の新鮮な魚や野菜の皿、名物の米を盛った椀などがずらりと並んだ卓を前に、ゆっくりと話が始まった。

「久しぶりですね。こうやってゆっくり話せる機会ができて嬉しいです」

 そこには変わらない笑顔があった。

 目の前で、1人の男が「希望」に向かってゆっくりと走り出そうとしていた――。

U-17W杯ではベスト8の原動力に。

 アルビレックス新潟所属の早川史哉。

 一昨年の4月に急性白血病と診断されたことで人生が激変したサッカー選手だ。

 筆者は彼が15歳のときから取材をしているが、アルビレックス新潟U-18の中でも非常に「賢い選手」だった記憶がある。当時からピッチ全体の状況をしっかり捉え、的確な判断ができる選手だった。

 どこのポジションでもこなせる器用さも持ち、U-16、U-17日本代表では吉武博文監督(現・FC今治監督)にウィング、サイドハーフ、サイドバックとして多用され長らく活躍した。2011年のメキシコU-17W杯では全5試合に出場して見事に3得点。日本代表ベスト8進出の大きな原動力ともなっていた。

 新潟でトップチーム昇格のオファーもあったのだが、彼には「プロサッカー選手にはなりたいけど、将来的には教員になりたい」という考えもあって、あえてトップ昇格を断って筑波大学に進学を決めた。

 筑波大では教員免許を獲得し、かつ4年時には蹴球部のチームキャプテンとして、前年に2部落ちしていたチームを一部復帰に導いた。

 そして、満を持して2016年に新潟に入団し、プロのキャリアをスタートさせた。CBとして開幕戦の湘南ベルマーレ戦でスタメンフル出場。華々しいプロサッカー人生をスタート……させたはずだった。

 そんな時、白血病という病魔が彼に襲いかかったのだ。

最初は練習の疲れや能力不足だと思っていた。

「開幕前から少しだけ異変を感じていたんです。朝早くに目が覚めるし、目覚めたら背中は汗がびっしょりで、疲労も残るし……。

 開幕してしばらく経つと、練習に出ても最初の方のダッシュでもう足がパンパンになって、最後の紅白戦をプレーするどころの騒ぎではなかった。だけど、プロとしてその場にいる以上、やらないといけない。監督、選手からの要望もあるし、それにできるだけ応えたいのだけど、身体が動いてくれない辛さがあって。

 練習後に風呂に入っていて、『よし上がろう』と思って立ったら、目の前が真っ暗になってよろめいて。そこからしばらく動けなくなったり……。

 第7節の広島戦のあとも後泊したホテルで強烈な寒気が起こって、全然眠れなかった。『これはまずいかも』と思ったのは、第8節の名古屋戦の後にリンパ節が腫れていて……。それで診察を受けたら急性白血病と診断されたんです」

病気を受け入れ、治療の覚悟を決めるまで。

 そこからすぐ、彼は療養に入ることになった。

「正直、症状はあるけど、病名がはっきりしていない時が一番怖かった。『白血病です』と医師から言われたときは、率直に『そうだったのか』と思っただけ。

 もちろん少なからずショックはあったけど、『なんだ、だからこんなに辛かったんだ。動けなかったのは俺のせいじゃなかったんだ』と思ったんです。

 自分をようやく認めてあげたというか、それまでは『俺、プロなのに一体なにやってんだ』とか、『情けないな』とも思っていた。でも、それは俺のせいじゃなかった、病気のせいだったんだって。自分をようやく認めてあげることができたし、しっかりと治療をして、しっかり治してからもう一度あのピッチに戻ろうと考えました」

 病気を受け入れ、全力で治療に取り組むことに決めた。

「チームとしてもサポートしていきたい」

 プロアスリートとしての復帰を視野に入れて、後遺症が出る可能性があるステロイド剤や放射線の投与の量も少し減らしてもらった。

 さらにクラブからは、「チームとしてもサポートしていきたい」という言葉をもらい、プロ契約こそ一時凍結という形をとったが、治療費などをまかなう基金を創設してもらうなど、様々に力強い支援を受けた。

「みんなが支えてくれる温かさも感じた。だからこそ、復帰を目指して治療に専念することができたんです」

 1年を越える入院生活を終え、昨年6月には病院での集中治療も一段落して退院することができた。

「俺は走れるようになったんだ!」

 自宅での生活に戻った彼は、「少しだけなら動いていいよ」という主治医の言葉をもらい、期待に胸を躍らせながらジャージに着替えて自宅の前の道を走り出したという。

 彼にとっては大きな一歩だった。だが、それと同時に、これから待ち構える不安の入り口でもあった。

 病気をする前には何気なく走っていた道。だが、1年以上のブランクを経て感じたのは……ただ走るだけの行為が、こんなにも楽しくて、自分にとって大切な瞬間だったのか、ということだった。

「俺は走れるようになったんだ!」

 気持ちが高ぶってしまい、ジョギングのつもりだったのに、気づくとスピードがどんどん上がっていっていた。

「どうしても病気の前の自分のイメージが残っていて。軽く走るだけのつもりだったのに、どんどん行ってしまった。勝手にスピードのギアを上げてしまったんです……」

 直後、彼の身体に異変が生じた。

「これ、やばいな。(再発)やっちゃったかも」

「その2日後くらいにリンパの鼠蹊部が痛くなってしまって。『これ、やばいな……(再発)やっちゃったかも』と思って、絶望感が襲ってきたんです。

 すぐに病院に電話をして『ちょっとリンパの部分が痛くなってしまって』と症状を話し、すぐに検査してもらって。

 結局、急に動きすぎて鼠蹊部の筋肉が痛みを発しただけだったのですが、その時の恐怖というか、絶望感が自分の中で強烈に残ってしまったんです」

 気持ちの面では復調していた。身体も快方に向かっているはずだった。当然、治療の経過が良いからこそ、退院と走ることを許されていたはずなのだ。

 しかし、サッカーにおける自分に対する以前のイメージと、病後の身体状況はかけ離れていた。

「何とかこの状況から抜け出さないといけない」

 病気をする前までは「ただの筋肉痛」「だだの痛み」と笑って済ませていたものが、今では常に再発のリスクに直結しており、ちょっとした痛みでも一気に心理的に追いつめられてしまうようになっていた。

「正直、もう外に出ることさえ怖くなっていました。動くことで生じた身体の変化に過敏になってしまったんです。

 それ以来、外で走ることや動くことを全部止めました。Twitterでは『ついに動き始めました!』と威勢良く書いていたのですが……」

 運動を止めてしまうと、今度は一気に自分がふさぎ込んでいくのが分かった。

「何とかこの状況から抜け出さないといけない」

 日々、焦りは募っていった。

病魔の恐怖とサッカーへの希望と。

「症状が出なければ良いという具合だったので、本当に難しかった。出てからじゃ遅いので。

 やっぱり僕の中で『もうあんな苦しい思いをしたくない』という思いが強いんです。でも、それじゃいつまで経っても前に進むことができない」

 治療が一段落したとは言え、自分との戦い、再発の恐怖との戦いは未だ続いていた。だが、彼の中にはそれでも前に進みたい強い理由もあった。

「入院中もそうでしたが、自宅療養中も多くの友達が来てくれたことが、自分の中で凄く大きかった。友達が来ると凄く楽しくて……。

 僕自身、率先して人と話すタイプじゃなかったし、1対1で話す機会なんてなるべく自分から作らないようにしていたんです。でも、病気になってから人と話すようになったと思う。

 友達と話をする楽しさで、生き甲斐を感じることができた。そんな会話の中で、やっぱりもう一度サッカーをやりたいとフツフツと思うようになったんです。もう一度あのピッチに立ちたい。サッカーを思い切りやりたい。サッカーは僕の生き甲斐でもあったんです」

アルビレックス新潟がリハビリを全面支援。

 なんとかサッカー選手としての一歩を踏み出したい――。

 退院して2カ月ほど経った9月、ついに彼はその一歩を踏み出すことができた。

 もう一度、ゆっくり走るところから始めて、徐々にダッシュやラダートレーニングなどを取り入れ、今年に入るとボールを蹴ることができるまでになった。

 そして、そうしたトレーニングの場所や機材を提供してくれたのは、アルビレックス新潟だった。

「たぶん恐怖は一生消えないと思います」

 話は2月21日に戻る。

 新潟の名産などを食べながら、彼は自分に起こったことを細かく話してくれた。周りからすれば想像を絶するほど辛く、重い経験であり、簡単には表現できないものが多くあった。しかし、こちらのそんな重い感覚とは裏腹に、彼自身はハキハキとこれまでの思いを話していった。

 その姿を見ているだけでも、この2年間で、いかに彼が人間としての強さを身につけていったのかが分かった。それと同時に、時折見せる影の部分をも、リアルに感じることができた。

「病魔からの復帰」という言葉だけだと、非常に聞こえは良い。だが、一番大切なのは早川史哉という1人の人間の命なのである。その挑戦が命を縮める無謀なチャレンジであっては、意味がない。

「たぶん恐怖は一生消えないと思います。今は治ったかもしれないけど、今後も身体のどこかにまだこの病気が隠れているかもしれないという恐怖と戦わないといけないんです。いつどこから出て来るか分からないですから。だからこそ、きちんとその恐怖と向き合いながら前進していかないといけないなと思っています」

 4時間にわたった彼との会話は、「生きる」ということはどういうことなのかを、もう一度お互いに問いかけ合うような、濃密な時間となった。

たとえ復帰できなくとも、失敗ではない。

「また会いましょう。これからもよろしくお願いします」

 別れの際、丁寧な言葉で挨拶する彼の姿に見て、筆者自身に自然と覚悟と決意が生まれるのを感じた。

 今はまだ、果てしない戦いの日々が始まったに過ぎない。彼はどこまでも続く孤独なレースを走り出したばかりなのだ。

 しかし、彼は決して1人じゃないと信じる。家族、多くの仲間、そして復帰を願うアルビレックス新潟というクラブ、サポーターの存在がある。

 早川史哉は決して屈しない。

 たとえプロサッカー選手としてピッチに復帰することができなかったとしても、それは決して失敗ではない。そこに至るまでの彼の経験、考え方、そして前進する勇気こそが、きっとその姿を見た者たちの大きな財産となるはずだ。

「着実に、やれることが増えているんです!」

 3月3日の新潟のホーム開幕戦の松本山雅戦。

 筆者はデンカビッグスワンスタジアムのスタンドで再び彼と会って、試合を一緒に観戦した。

「今日の午前中にジュニアユースの選手達と一緒にグラウンドで汗を流してきたんです。連続のシュート練習やヘッドの練習もできるようになりました。着実に、やれることが増えているんです!

 もちろん、こうしてみんなの試合を観ると、すぐにでもあのピッチに立ちたくて仕方なくなりますが……一歩ずつ着実に、焦らずに、自分から逃げずにやっていきたいと思います」

 真剣なまなざしでピッチを見つめ、仲間のプレーに無邪気に一喜一憂する彼の姿は「純粋なサッカー小僧」そのものだった。

 そんな純粋なサッカー小僧が自分の身体と向き合いながら挑戦し続ける旅路を、筆者はこれからも見守り続けたいと思う。

文=安藤隆人

photograph by Takahito Ando

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