Bリーグ琉球・佐々宜央HCの流儀。33歳で指導者歴15年、異色の経歴。

Bリーグ琉球・佐々宜央HCの流儀。33歳で指導者歴15年、異色の経歴。

 当時アメリカに住んでいた多くの子どもと同じように、佐々宜央(さっさ のりお)も赤いユニフォームを身にまとった選手たちのプレーに目を奪われていた。

 佐々が生まれたのは1984年、マイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズへ入団した年。銀行員だった父親の転勤にあわせて4歳でシカゴへ渡り、12歳までアメリカで過ごした。小学校の途中でニューヨークに引っ越したが、シカゴへの憧れは変わらなかった。

 1993年のNBAファイナル第6戦、ブルズの3連覇(スリーピート)を決定づけるジョン・パクソンの3Pシュートが試合終了直前に決まった瞬間には、興奮して叫んだせいで自宅の2階にあったテレビが突然映らなくなったという。その時はあわてて1階へ降り、フェニックス・サンズ戦の残り3秒を見届けた。

高校まで目立った成績は残していないが。

 33歳という若さで琉球ゴールデンキングスのヘッドコーチ(HC)を務める佐々は、当時をこう振り返る。

「HCがタイムアウトを取るのを、楽しみに見ていましたね。もちろんプレーを指示するためだけに取ることはありますけど、基本的には試合の流れが相手にいきそうなときにタイムアウトを取るわけじゃないですか? バスケでは流れがすごく大事だと思っている。試合の流れをつかむ感覚は、子どもの頃から培ってきたと思います」

 小学6年生で日本に帰国し、成蹊中学へ。東京都大会で2位になり、ジュニアオールスターといわれる都選抜チームに選ばれたこともある。そのチームには後に日本代表で活躍し、現在は京都ハンナリーズでプレーする岡田優介もいた。

 この頃、佐々はプレーヤーとしてアメリカの大学に進学して……という夢を描いていた。だが成蹊高校での最高成績は、東京都ベスト8。さすがにアメリカの大学で活躍する姿は描けなかった。

 進学したのは東海大学だった。2000年に陸川章がAチームのヘッドコーチ(HC)に就任し以降めきめきと力をつけ、今ではBリーグの選手をもっとも多く輩出している大学となった。ここで佐々のバスケ人生は大きな転機を迎える。

前代未聞の1年生ヘッドコーチに。

 佐々は'03年の入学時、漠然と“教員免許をとって、どこかでバスケットボール部の先生にでもなろうかな”と考えていた。入学後はBチームに割り振られたのだが、佐々が教員志望であることを知った名将からは、1年生ながらも「学生コーチ」、つまりアシスタントコーチになるように持ちかけられた。

 これを受諾するやいなや、想定外の出来事が起きる。BチームでHCを務めていた人物が大学院での論文執筆によって、チームに関わる時間が限られることになった。そこで佐々が前代未聞の1年生HCになった。つまり同学年だけでなく、2年生から4年生の上級生にも指導する立場となったのだ。

 そんな経験を経て、佐々は3年生からAチームで陸川を支えるACとなる。翌年には同学年の竹内譲次や石崎巧ら選手たちとともに、関東大学バスケットボールリーグとインカレの2冠に貢献した。佐々と同学年はゴールデンエイジと呼ばれ、前述した岡田ら今もBリーグで活躍する選手が多い。

「この前、アルバルク東京と京都ハンナリーズの試合を見ていたら、コートにいる10人中5人が同学年の選手でした(笑)。ただ、大学の時には彼らが(ユニバーシアードの)代表に行っている時、僕は東海大学に残っていた。だから、彼らがうらやましくて。ミーハーな憧れではなくて、高いレベルを味わいたい、彼らを追いかけなきゃという気持ちでした。その気持ちは今でもそうですね」

日本代表で通訳兼ACを兼務したことも。

 トップレベルの選手として活躍した経験のない佐々だが、指導者としてのキャリアはまもなく16年目を迎えようとしている。これは異例のことだ。

 例えば名門・川崎ブレイブサンダースの北卓也HCと比較してみよう。彼は現在のBリーグ指揮官のなかでもキャリアが長い指導者だが、今季10年目のシーズンである。佐々がいかに指導者畑を歩み続けているかが分かるだろう。

 佐々は東海大卒業後に大学院へ進み、さらに2年間、母校のACとして指導を続けた。そして'09年には日立サンロッカーズ(現サンロッカーズ渋谷)のACとなった。

 そこでサンロッカーズのHCを8シーズン務めた小野秀二に師事。'13年からは栃木ブレックスでAC兼通訳として3シーズンを過ごした。なお'14年からは日本代表の通訳兼ACも兼務していたのだ。

 栃木ではリトアニア人の名将アンタナス・シレイカ氏や、後にBリーグ初代王者に導くトーマス・ウィスマンのもとで働く。代表では長谷川健志(栃木の前HC)とルカ・パヴィチェヴィッチ(現アルバルク東京HC)をACとして支えた。

ACの経験は、HCとしての判断で生きる。

 ACでありながら、通訳も務める。アメリカで現地校に通っていた経験が生きたわけだが、当然ながらHCとの関係は通常のAC以上に密なものになる。アメリカでの日々があったからこそバスケットボール観を養ったし、ACとして培った経験は、今置かれているHCとしての判断基準にも生きる。

 ACはHC以上に、選手と直接コミュニケーションを取る機会が多い。

 試合に出られない選手は何を考えているのか。

 田臥勇太のような実績ある選手は、どのような指示を受けると気持ちよくプレーできるのか。

 こういったことを知れたことは今につながっている。また局面ごとにどういう手を打てば良いのか、どういう指示をすれば良いのか、といった指導のポイントもつかめた。

「僕、『察知力』が好きだったんです」

 琉球の選手たちの声を聞いて興味深かったのは、佐々がデータに頼りすぎないということだ。

 データは、相手と自分たちの特徴をわかりやすく理解するためのツールである。

 しかし、選手としてトップレベルの経験がない指揮官は、データに依存しがちだ。HCの頭の中にある戦術を分かりやすくするはずのデータが、気づけば自身の拠りどころになっている。それを選手に見透かされてしまえば、求心力を失ってしまう。

 人は数字では動かない。人は気持ちで動くのだ。

 同じような年代やキャリアの指導者が陥りがちなミスを、佐々が犯さないのには理由がある。本人が挙げたのは、意外なアスリートの著書だった。

「僕、あの本が好きだったんですよね。(中村俊輔著の)『察知力』です。察することって、大事じゃないですか。自分も選手も、1つの組織の中でやっているわけですから。何を必要とされるのかを察しながら、やらないと絶対に生きていけないですよね」

 そんな佐々の考えがよく表れていた試合が、第2節・名古屋ダイヤモンドドルフィンズとの2戦目だった。レギュラーシーズンの3分の2にあたる40試合を終えた時点で、昨シーズンと比べて琉球は1試合あたりの平均失点が10点以上減っている。今シーズンは守備の整備に熱量を注いだが、開幕直後の名古屋戦では守備のルールが遂行できず、終始追いかける展開だった。

「内容については俺が反省する」

 そこで33歳の新米HCが選んだのは、選手の守備に目をつぶっても、点を取りに行くことだった。いかにして相手を上回るかの策を授けて、85−81で逆転勝利を収めた。今季の琉球と比べると、平均得点が9.7点多いかわりに、平均失点は14.9点も多い、珍しいスコアでの勝利だった。

 試合後、佐々はこう話していた。

「内容については俺が反省する。選手は頑張って勝っているんだから自信をつけてよ、と思います」

 チームを強くするために、プロセスや理想を貫くのか。あるいは、結果を残して選手に自信をつけさせていくことで、理想とするチームに近づけるのか。

 それは指導者にとって永遠のテーマだ。正解はなく、残った結果でしか評価されない。だからこそ佐々はこうも語っている。

「自分には選手経験もないし、若い。もちろん自信を持って、琉球に来ています。ただ、(西地区でダントツの首位を走る)今の勝利と敗戦の数が逆だったら、周囲から『なんで、あんなやつをHCにしたんだ?』と言われていたでしょうからね」

成長よりも、勝ちが求められていた。

 琉球は今シーズン、12人中7人が新加入選手である。チームが刷新したなかで、選手たちが自信を持つためにも、周囲からの懐疑的な声を抑えるためにも、開幕直後は何よりも結果が求められていた。

「あのときはまだ始まって3試合目と4試合目。結果が必要だった。だから、何を求められているのかといったら、成長も必要なんだけど、それ以上に勝ちを求められているということだったんですよね」

 そのプロセスは、実際に成果を挙げている。琉球はシーズンの3分の2を終え、西地区1位だけではなく、リーグ全体でも第21節時点でシーホース三河と並び勝率がトップタイの成績だったのだから。

「高め合うことが人間の本質なのかな」

 33歳にして円熟味を感じさせる佐々の指導は、察知力によって支えられている。そんな力を身につけられたのは、生まれ育った背景にもある。

「僕は3人兄弟の末っ子なんです。厳しい家庭だったので、上の2人が叱られているのを見て“どうやったら叱られないんだろう”と考えてきたのもあるでしょうね。

 あとは、転勤も多かった。日本からシカゴ、ニューヨークに引っ越し、また日本に帰ってきた。だから“どうやったら学校に馴染めるのか、環境に適応できるのか”と、察してきたからかもしれませんね」

 アメリカでの生活、ACとしての経験が、人間的にも、指導者としての成長にも大きな恩恵をもたらした。それもあって、佐々は今こんな理想像を考えている。

「チームというファミリーのみんなが、ハッピーになれることですね。もちろん成功したい、優勝したいというのは大前提です。そのために充実したチームビルディングをしていきたいし、もっと言えば日本のバスケも発展してもらいたい。

 結局、高め合うことが人間の本質なのかなと思うんです。それは、人としても、選手としても、コーチとしても、チームとしても。それが目指していけるのが、チームスポーツであるバスケだと思っているんですよ」

 現実と向き合いながら、理想へ近づいていく。我々が琉球というチームに見ているのは、バスケの持つ魅力が解き明かされていくプロローグなのである。

文=ミムラユウスケ

photograph by B.LEAGUE

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