元FC東京“ノリカル”は引退していた。現役時代の苦楽は仲介人で生かす。

元FC東京“ノリカル”は引退していた。現役時代の苦楽は仲介人で生かす。

 2004年6月、夜の国立競技場――。

 左足に弾かれたボールが文字通り“うねりをあげて”ゴールネットに突き刺さる。ナビスコカップのヴィッセル神戸戦、ゴールまで約25メートルの距離から決めた強烈なフリーキックに、スタンドはどよめいた。

 ブラジル代表の左サイドバック、「ロベカル」ことロベルト・カルロスを彷彿させる左足のキック。付いたニックネームは、ノリカル――。

「あれはたしか、U-20日本代表の合宿中に、角田誠だったか、近藤直也だったかが言い出したんです。自分でもけっこう気に入ってます」

 選手の視察に訪れた味の素フィールド西が丘のゴール裏で、鈴木規郎は微笑んだ。

 プロ入りから6シーズン在籍した古巣・FC東京のU-23チームのホームゲームだけに、すれ違うサポーターからは「あ、ノリオだ」との声が聞こえてくる。

「もう引退したんだっけ?」との声も。

「この場を借りて引退を報告します」

 実は1年と少し前、鈴木はスパイクを脱いでいる。だが、そのことを公表していない。いや、正確に言うと、現役最後のシーズンは無所属だったから、引退の報告をする機会がなかったのだ。

「なので、この場を借りて引退したことを報告させていただければ。2016年シーズンをもって、引退しました」

 ウィキペディアを見ると、2002年のFC東京から始まり、神戸、アンジェ(フランス)、大宮アルディージャ、ベガルタ仙台と続いたキャリアは、2015年シーズンのグローバルFC(フィリピン)を最後に途切れている。

「仙台を退団したあと、最後は自分の好きな場所、好きなスタイルで、楽しくやりたいと思ったんですよ。それで、海外に行くことにしたんです」

フィリピンでは不完全燃焼だった。

 いくつかある国の中からフィリピンのクラブを選んだ理由は、親友の存在である。

「柳川雅樹。ヤナが僕の2カ月くらい前にフィリピンに渡っていて、そのクラブが僕を獲得してくれるって言うんですよ。だったら、俺も行くって」

 鈴木にとって2つ目の所属クラブとなった神戸で出会い、その後、オフにふたりで海外旅行をするまで親しくなった4学年下の後輩と、現役生活の最後を楽しむ――。

 それが、鈴木の思い描いたストーリーだった。

 ところが、フィリピンでのプロ生活は、鈴木にとって花道にならなかった。

 鈴木はセカンドトップやウイングを主戦場としていたが、クラブが求めていたのは、本格派のストライカーだったからだ。

「他にもいろいろと問題があったんですけど、結局、あまり試合に出られなくて。自分としては不完全燃焼で」

大きな夢を持つ若手をサポートしたい。

 1年で帰国した鈴木は沖縄に拠点を置き、今後の身の振り方を考えながら自主練習に励み、ザスパクサツ群馬、ジェフユナイテッド千葉への練習参加のチャンスを掴む。

 だが、残念ながら契約には繋がらず、2016年12月のトライアウトに最後の可能性を懸けることにした。

「その前に関東1部のチームから声を掛けてもらっていて、それは、ありがたかったんですけど、アンジェに行ったときも、練習参加でミドルを叩き込んで契約を勝ち取った。だから、最後も自分で道を切り開きたかったし、何とかなると思ったんです」

 トライアウトでは、実際にゴールを決めた。しかし、オファーは届かなかった。

「それで、ケジメを付けることにしました」

 セカンドキャリアのイメージはあった。それが、仲介人だった。

「指導者という選択肢もあったんですけど、指導者になるなら将来はJ1で監督をやりたい。でも、それには何年掛かるのかなって。そうやって、いろいろと考えるなかで魅力を感じたのが、代理人(現仲介人)。僕は現役時代、3つの代理人事務所と契約していて、選手にとっていかに代理人の存在が大切かを知っているし、若い頃、自分にはレアル・マドリーに移籍したいという夢があった。今度はそういう夢を持つ若い選手をサポートしたいなって」

「月1万円でいいから上げて、とか」

「選手エージェント制度」に代わって「仲介人制度」が導入されたのは、2015年4月のことである。以前は試験を受けてライセンスを取得しなければ代理人になれなかったが、現在は登録さえすれば仲介人として認められる。参入へのハードルが下がったことで、元選手である鈴木の選択肢になり得たのだ。

 振り返れば、10代だったプロ1、2年目は代理人と契約を結んでおらず、百戦錬磨の強化部長との交渉にひとりで臨んでいた。自身の出場試合をすべてチェックし、アピールポイントを書き込んだノートを握りしめて。

「月1万円でいいから上げてくださいとか、粘り強く交渉してました。そういう意味では、僕は若い頃から仲介人の経験を積んでいたようなものなんです」

 '17年は、最後に契約していた代理人の事務所に所属させてもらい、夏に仲介人登録を済ませ、経験を積んだ。

現役時代の失敗談も伝えている。

 鈴木にとって武器となるのは、やはり、自身が元選手であるというキャリアだ。

「例えば、東京時代、監督だった原(博実)さんに言われたのは『1試合5本シュートを打て』ということ。『打てなかったら、スタッフ全員にコーヒーを奢れ。そのかわりゴールを決めたらコーヒーを奢ってやる』と。そのときは『割に合わないな』と思ったけれど(笑)、そういう意識は大事だよって」

 契約する選手にはプレー映像を編集して送り、望めばディスカッションもする。もちろん、自身の失敗談も伝えてきた。

「神戸時代には監督のカイオ・ジュニオールと衝突して干されて、フランスに移籍しました。若い頃は、監督の言いなりになっていては、自分という商品を生かしていけないと思っていた。生き残るために守りに入りたくなかったんです。それで失敗したことも多いし、今では申し訳ないことをしたとも思っていて。だから、選手には『監督に歯向かってもいいことは何もないよ』と話すんです(笑)」

アイディアは僕、判断は親友のヤナ。

 こうして1年間、仲介人としての経験を積んだ鈴木は今年独立し、会社を立ち上げるための準備を進めている。共同経営者は、親友の柳川だ。

「ヤナはあの後、さらに2年フィリピンでプレーしたんですけど、ケガをしたのと家族の問題もあって帰国したんです。お世話になったフィリピンのために何かしたいというので、じゃあ、一緒にやろうって。

 ヤナは今、フィリピンのサッカー界を良くするために選手会を作ったり、慈善事業とかいろいろやってます。一方、僕は仲介人として、フィリピンに選手を送ったりもしたい。プロとして活動したくても、日本にはその場がない、という選手は多いですから」

 やりたいことは山ほどある。東南アジアへの指導者の派遣、ヨーロッパでの合宿のアテンド、サッカー留学の支援、飲食店でのパブリックビューイング……。

「僕がビジネスアイディアを毎日のように10個ぐらい出して、ヤナが冷静に判断するんです。それは無理ですとか、それだったらこうしましょうとか」

 5月16日の立ち上げを予定している会社の名前は「株式会社 By players」と言う。直訳すれば、「選手によって」。元選手である自分たちの手によって新しいビジネスを生み出したい、という意欲が表れている。

 一方で、和製英語の「Byplayer」には「脇役」という意味もある。

 主役は現役の選手たち。自分たちは彼らを支える名脇役でいたい、という想いも込められている。かつて自分たちも支えてもらってきたように――。

文=飯尾篤史

photograph by Atsushi Iio


関連記事

おすすめ情報

Number Webの他の記事もみる
主要なニュースをもっと見る
社会のニュースをもっと見る
経済のニュースをもっと見る
政治のニュースをもっと見る
国際・科学のニュースをもっと見る
エンタメのニュースをもっと見る
スポーツのニュースをもっと見る
トレンドのニュースをもっと見る
生活術のニュースをもっと見る
地域のニュースをもっと見る

スポーツ アクセスランキング

ランキングの続きを見る

スポーツ 新着ニュース

新着ニュース一覧へ

総合 アクセスランキング

ランキングの続きを見る

東京 新着ニュース

東京の新着ニュースをもっと見る

東京 コラム・街ネタ

東京のコラム・街ネタをもっと見る

特集

特集一覧を見る

記事検索