横浜FMに憧れ湘南で育ち浦和で飛躍。遠藤航の叶った夢と「もう1つ」。

横浜FMに憧れ湘南で育ち浦和で飛躍。遠藤航の叶った夢と「もう1つ」。

 日本代表DF遠藤航は、ロシアW杯で一度も試合には立てなかった。目の前に引かれたタッチラインの向こう側が誰よりも近くて遠い。“世界”は体感できずに終わった。

 ベルギー戦後、「試合に出られなかった選手は、この座り心地の悪かったベンチの感触を忘れるな」と西野朗監督から言われた。悔しさの詰まったロストフのベンチ。遠藤はそこから立ち上がった瞬間、過去に味わったことのない感情と向き合っていた。

「ベルギー戦が終わった瞬間、『早く試合に出たいな』って思っている自分がいました。とにかく早く試合をしたくって、もうウズウズしていました。これだけ試合に出られなかった経験なんて過去になかったですから。それに、その悔しさをぶつけるのは、ピッチでの戦いしかなかった」

 遠藤はフットボーラーとして2つの目標を掲げている。

「欧州でプレーすること。ワールドカップで活躍すること」

 ベルギー戦の試合終了を告げる笛は、遠藤にとって、その目標を実現する4年後に向けた新たなスタートの合図でもあった。

ハリルに言われた「40代のよう」。

 帰国後、目標の1つがさっそく叶う。今夏、浦和レッズからベルギー1部のシント・トロイデンへの完全移籍を果たした。その先の主要リーグへのステップアップも視野に入れたものだが、まず欧州での第一歩を踏み出すこととなった。

 ヴァイッド・ハリルホジッチ元監督の下、遠藤は2015年夏の東アジアカップ(現E-1東アジア選手権)でA代表デビューしている。ハリルから突然言われたことに小さくない衝撃を受けた。

「40代のようなプレーをしているな」

 含蓄のある表現だが、決して良い意味ではなかった。冷静沈着であることは彼の武器だが、もっとアグレッシブにいけ、という裏返しだった。

 さまざまなポジションを高いアベレージでこなし、常に動じず泰然と構えている。それはそれで強みだと自負する。ただ日本代表のような一流の中の一流が集うレベルになれば、「いろんなポジションができるのはメリット。でも器用貧乏とも言える。どうしても二番手、三番手になってしまう」と遠藤は自覚する。もう一皮剥けてレベルアップするために下したのが、環境を変えるという決断だった。

松田直樹や中澤佑二に憧れた頃。

 1対1の真っ向勝負でエース級を止めるデュエルの強さが認められ、あらゆる監督から重宝されてきた。そんな彼のルーツは、Jリーグとともにある。

 遠藤は幼い頃から、実は「大の横浜F・マリノスファンだった」と明かす。ファイター松田直樹の真似をよくして、ボンバー中澤佑二に憧れた。

 2002年7月21日には、中村俊輔がセリエAのレッジーナに移籍する直前のラストマッチ、東京V対横浜FM戦に足を運び、イタリアに羽ばたく「10番」が決めたゴールに痺れた(横浜FMが3−1勝利)。

 さらに小学5年、6年、中学になってからと、横浜FMの下部組織のセレクションを受けている。しかし「ダメ元でしたから」という挑戦は、いずれも不合格に終わった。

 中学進学の際は、町クラブの2チームのセレクションを通過。それでも熱心な指導で知られる大野武監督が赴任すると聞き、地元の南戸塚中への進学を選択した。

 結果的にこの判断が、プロへの道を切り開くターニングポイントとなる。

曹監督に声を掛けられ感激。

 遠藤は中学2年のとき、センターバックにコンバートされた。するとじわじわと頭角を現し、中学3年時に国体の神奈川県選抜に抜擢される。誰からも慕われる性格が買われてキャプテンも任され、2009年度の新潟国体サッカー少年の部で、チームを優勝に導く。

 それからはU-16など年代別の日本代表にもコンスタントに招集されていった。

 中学1年の頃からの成長を見守っていた1人が、当時湘南ユースを率いていた曹貴裁(現・湘南監督)だった。

「ずいぶん上手くなっているな」

 中学3年のとき、遠藤は曹からそのように声を掛けられ、驚くと同時に感激した。そしてこのあと湘南ユースから加入の打診が届いたのだ。

 ちょっと意地悪に、でもやっぱり横浜FMのユースに行きたかったのでは? と聞いたことがある。遠藤は細い目をさらに細くして笑って言った。

「いやいや。ベルマーレのユースに僕が入れるなんて夢みたいで、めちゃくちゃ嬉しかったですよ」

高3でJ1デビュー、そして。

 実際、湘南の環境は、ある意味で彼に最適だった。高校生(湘南ユース)の間は一段と貪欲に練習に取り組み、チームと代表で切磋琢磨し合った同世代の中で守備の安定感を身に付けていく。

 2010年、高3の遠藤は2種登録選手としてJ1で6試合の出場機会を得た。とはいえ湘南は最下位を独走し、早々にJ2降格が決定……。最後は22試合勝ち星なし、8連敗でシーズンを終えている。

 その最終戦となった12月4日、1−3のスコアで敗れたアウェーの新潟戦。遠藤はJ初ゴールを決めている。当時の反町康治監督から「今日頑張った選手を挙げるならば、高校生(遠藤)と大学生(永木亮太/当時特別指定=現・鹿島)を選ばざるを得ない。稼いでいるプロの選手たちには『なにくそ』と思ってもらわないと」と言わせたほどだった。

 サポーターにとっては忘れられない極寒の中で光を放った希望の一撃。全国的にはそこまで脚光を浴びぬ中、静かに遠藤はJリーグでのキャリアを積み重ねていった。

「浦和に行きます」が言えなくて。

 リオ五輪代表のレギュラーを務める遠藤の市場価格は高騰し、2015年には5クラブからオファーが届いた。その中で、2年連続真っ先に動いた浦和への移籍を決断した。

 湘南の真壁潔会長は遠藤から直接、浦和行きの報告を受けたときのことを明かしている。

「リオ五輪代表チーム(U-22代表)の中東遠征の時、航から電話がありました。報告があります……と、受話器越しに涙で声を詰まらせ、航はそこから先を言えなくなっていた。浦和に行きます、という一言を振り絞れず、泣いていました」

 遠藤がそのように感情を昂らせることは滅多にないことだ。少年を一人前のプロ選手へと育ててくれた湘南への特別な想いが伝わってくるワンシーンだった。

 浦和に在籍した2年半は、飛躍的な成長を遂げた。2016年のルヴァンカップ決勝G大阪戦、PK戦の最終5人目のキッカーを務めて優勝に貢献した。'17年にはACL制覇を達成。2つの主要タイトルをもたらした。さらに主将としてリオ五輪代表の全3試合を戦い、A代表にもコンスタントに招集され、国内組8人のロシアW杯代表メンバーに食い込んだ。

4年後、子供たちに代表での姿を。

 試合に出たいと疼いていた遠藤は、W杯からの帰国後、天皇杯を含む3試合でフル出場を果たす。結果的に移籍前のホームラストゲームとなったJ1・16節の名古屋戦では、CKからのへディングで2ゴールを決めた。これが浦和サポーターへの惜別のあいさつ代わりとなった。

「W杯という舞台に立ちたい。もちろんメンバーに選ばれて行くだけでも価値はありましたけど、プロである以上、試合に出なければ評価はされないと思っています。W杯のピッチに立ちたい。その想いが一段と強くなりました。

 W杯で味わったいろんな悔しさを、まず2ゴールという形でぶつけることができた。でも得点がすべてではない。しっかりといいプレーを続けていくしかない」

 フットボーラーとしての2つ目の目標は、ワールドカップで活躍することだ。

 遠藤は25歳にして3人の子を持つ父親でもある。その子供たちの物心がつく4年後、カタールの地で日本代表のユニフォームを着る姿を見せる。ミッションはベスト8以上だ。

 それを叶えられれば――タフで強靭な遠藤航というアスリートを育て支えた全ての人たちへ、少年の心を突き動かした天国にいる松田直樹を含めて、大きな恩返しになる。

 実は昔は横浜F・マリノスファン。湘南で育ち、浦和で成長し、ベルギーへ。遠藤の大海への航海が、今始まった。

文=塚越始

photograph by Getty Images


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