「引退」の二文字はまだ早い……。村田修一、今季NPB断念と現役の意地。

「引退」の二文字はまだ早い……。村田修一、今季NPB断念と現役の意地。

 平成が始まったばかり、九州福岡県の小さな町の小さなグラウンドで、まだ体も小さい小学4年生が泣き叫びながら、ピンクや青や黒、緑などカラフルなビニールテープをぐるぐる巻きにしたプラスティックのバットを振り回していた。

 その少年は、クラス対抗の草野球に負けたのが悔しかったのだ。

 勝った相手クラスの子どもの自転車をたたいて、悔しがった。

 狂気的な怒りではない。子供らしい無慈悲さゆえに、勝った方の生徒が挑発的な喜び方をしたのも悪かった。

 あの夏は暑いなんて感じなかったが、あれから約30年が経ったこの夏は異常に暑く感じる。

 子供ながらに執拗に喜びをあらわにした、あの時の少し照れくさい記憶を思い出しながら、ホテルの一室でパソコンを開いた。

 モニターに映し出される、あの夏、プラスティックのバットを振り回した少年の大人になった姿は、無数のフラッシュを浴びていた。筆者にとっていつも同世代の星であり続けた男が、栃木県の小さな会見場で野球人生にひとつの区切りをつけたのだ。

 松阪世代と言われる中でも、福岡県の小さな町で育った自分たちにとっては「修一世代」だった。村田修一とともに、同じ時代を過ごしてきた。修一は常に、一番星であり続けた。

「選択した道に後悔はないです」

「自分の野球人生を歩んできて、選択した道に後悔はないです」

 終始、堂々と、胸を張り、ときにはハッキリとした口調で、自分の言葉で思いを伝えてきた。

「受け止めて、前を向いて進むしかない。自分の中で整理して、次に進んで行こうかなと思います」

 あえて「引退」の二文字を口にしなかったのが、せめてもの「男・村田」の矜持だったのではないだろうか。

 プロとして、野球人として、最後まで「男・村田修一」を貫いたように感じる。

優しすぎる村田が纏った「男」の称号。

 輝かしい成績を残してきたプロ生活で、修一は「男・村田」と呼ばれてきた。

 生きるか死ぬかの世界で戦い抜くために、纏った鎧と兜だったんじゃないかと思う。プロ入り後の奇抜な髪形も、強気な発言も、自分の中にある優しさや弱さを隠そうとしていたように映った。

 もちろん、同級生とけんかしたり、怒ったりすることもあった。教師から怒られることもあった。でも、昔から「いいヤツ」だった――皆そう思っていた。

 両親が教師という家庭に生まれ育ち、小学生時代の成績は優秀。エレクトーンも習っていた。一方で小学3年から始めた野球では、投げても打っても目立っていた。

 筆者が所属していた弱小チームは、先頭打者の内野ゴロ以外すべて三振に抑えられたこともあるくらいだった。

 中学ではボーイズリーグに入り、投手としての名は小さい町にとどまらなくなった。

 地元では「野球がうまい村田くん」として名前が広まりながらも、学校では1人のクラスメートとして語り合い、じゃれ合い、笑い合ってきた。目立ち過ぎず、かと言って、目立たないわけでもない……という妙な存在でもあった。休み時間になれば手作りのボールで野球。担任に怒られ一時は止めるが、しばらくするとまた始める。そこらへんにいる中学生となんら変わらなかった。周囲は皆「いいヤツ」と口をそろえる。

周囲の者は皆「優しい人」と言う。

 高校に進学すると、1年からベンチ入りした。あれだけバケモノのような先輩がいる中で18人の中に入った事実こそ、バケモノだった。

 野球部での立場の確立とともに、学校内での立場も変わる。同級生が一目置く存在となり、2年になればレギュラー。3年になると甲子園にも出場して、その名は全国に広まった。野球が「村田修一」という人間を大きくしていったように感じる。

 それに追いつこうと、ギャップを埋めるスイッチとして「男・村田」の冠を使ったように感じる。

 甘さや優しさがプロの世界では足かせとなると言われる。世間のイメージとは違い、修一の心根は優しい。

 それは同級生やアマチュア時代のチームメートだけでなく、プロで同じチームでプレーしたことのある選手たちも証言する。

7月31日までに2度も故障を……。

 再出発の地に選んだBCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスで、ようやく「男・村田」の看板を下ろして、野球をしているように映った。打つ、守る、走るだけでなく、若い選手に身振り手振りで指導する姿も見えた。「本当に野球が好きな子」と表現したチームメートに感化されてか、純粋に白球を追っているようだった。動きは37歳も、心はプロ入り前に戻ったのかもしれない。

 ただ、NPBへの移籍期限の7月31日までという期限のある中で2度、右足を痛めたことは大きな誤算だったに違いない。時間が限られた中でも、修一は前を向き続けていたはずだ。

 まだ傷が癒えない5月12日、巨人の三軍との試合は「男・村田祭り」と銘打たれて行われた。

怪我を押して立った打席で本塁打。

 負傷中で断ることもできたが「チームのためなら」と開催に承諾。

 当日は観客席へ向かってのマイクも握った。

 本当はまだ打撃ができる状態でなかった。それでもこの試合の「顔」だっただけに、試合展開次第ということになっていた打席に立つことも厭わなかった。

「走れないからフライアウトを打ってくる(笑)」

 無理を押して立ったその打席で、これまで何度も何度も描いてきたきれいな放物線を描くアーチを左中間に放った。足の不安は、いつもよりもゆっくりとダイヤモンドを一周していた姿からもひしひしと伝わった。

「これがあるからやめられないんだよな!」

 この時点で、ホームランアーティストとしての本能はまだ色あせていなかったはずだった。

「小学3年から野球を続けて……」

 怪我も癒えて本格復帰を果たした後、栃木で見せつけた打力もまた、色あせてはいなかった。

 先の会見場でのコメントでも「(NPBでプレーする)万全の準備はできていた」と胸を張っていたのだ。まだやれる自信はあるが、まだやれる自信があっても、もうプレーする場がないことを思い知った9カ月でもあったのかもしれない。

 9月9日が栃木での最終戦となる。

「小学3年から野球を続けてきて、その集大成を皆さんにお見せできたら」

 栃木が本拠地とする小山市の球場周辺は、山を望み、畑が広がり、チョウチョが飛び、セミが鳴く。生まれ育った町に似ている。

 プラスティックのバットを振り回したときと同じように小麦色に日焼けした37歳が、平成最後の年に、本当に好きだった野球に一区切りを付ける。

文=前原淳

photograph by Kyodo News


関連記事

おすすめ情報

Number Webの他の記事もみる
主要なニュースをもっと見る
社会のニュースをもっと見る
経済のニュースをもっと見る
政治のニュースをもっと見る
国際・科学のニュースをもっと見る
エンタメのニュースをもっと見る
スポーツのニュースをもっと見る
トレンドのニュースをもっと見る
生活術のニュースをもっと見る
地域のニュースをもっと見る

スポーツ アクセスランキング

ランキングの続きを見る

スポーツ 新着ニュース

新着ニュース一覧へ

総合 アクセスランキング

ランキングの続きを見る

東京 新着ニュース

東京の新着ニュースをもっと見る

東京 コラム・街ネタ

東京のコラム・街ネタをもっと見る

特集

特集一覧を見る

記事検索