和製ロナウド矢野隼人の引退後10年。自らの挫折を伝えるS級指導者に。

和製ロナウド矢野隼人の引退後10年。自らの挫折を伝えるS級指導者に。

 矢野隼人の名を記憶に留めている人はどれほどいるだろうか。

 1998年、帝京の超高校級ストライカーとして注目を集め、全国高校サッカー選手権大会で準優勝。1999年、高3で日本サッカー協会強化指定選手(現JFA・Jリーグ特別指定選手)となり、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でJリーグデビュー。2000年、V川崎に加入し、いきなり9番のユニフォームを渡された。

 海外サッカーがいまよりずっと強い憧れとロマンをもって語られていた時代、そこかしこに何人もの和製〇〇が生まれた。矢野はその風貌とプレースタイルからブラジル代表の怪物ストライカーであるロナウドに喩えられ、盛んにメディアで取り上げられた。

 ほとんどはうたかたの夢と消え、矢野もまたそのひとりとなる。

 Jリーグ通算11試合0得点。2002年、東京Vで現役引退を決めた矢野が残した足跡のすべてだった。

「刈谷から全国で通用する選手を」

 以降、矢野の歩みは紆余曲折あった。サッカー界から完全に離れて中古車のセールスマンとなり、2007年JFLのFC刈谷で現役復帰、しかし腰を痛めて2年後に2度目の引退。ほぼ同時に立ち上げられた中学生年代の街クラブ、ホペイロ刈谷(現刈谷JY)で指導者の道に入った。

「一度はサッカーを嫌いになって辞めたんです。だから、未練はありませんでした。刈谷で現役復帰し、残念ながらいい結果を残せませんでしたが、この選択に後悔はないですね。それまで大人の言葉に従ってサッカー人生を歩んできた僕が、初めて自分で決めたことでしたから。

 己の力で這い上がり、Jリーグの舞台に戻りたかった。今後は育成年代のスペシャリストになるのが目標です。刈谷から全国で通用する選手を育てたい」

 そう語っていた冬の日から、およそ10年の歳月が流れている。

世代別の常連・山田寛人を育成。

 矢野は地道に経験を重ね、ホペイロ刈谷は技術を磨き、頭を使ってプレーするテクニカルな集団の特色を強めていく。「これが、あの身体能力で勝負していた矢野くんのチームなの?」とあからさまに驚かれることもあった。

 そして、その先には大きな才能との邂逅が待っていた。

「体験会にきた選手のなかで、ひとりだけ別格でした。ファーストタッチを見た瞬間、これはスペシャルだと。とにかくボールタッチが柔らかく、顔も上がっている。まるで(ジネディーヌ・)ジダンみたいだと思ったのを憶えています」

 当時11歳、小学6年の山田寛人(現セレッソ大阪)である。山田は刈谷でプレーすることを選び、やがてU-15日本代表を皮切りに年代別代表の常連へと成長していった。

「寛人はストライカーとしては育てていないんですよ。当時のチームに点を取れる選手がいて、2列目から飛び出すセカンドアタッカーの位置づけ。意外性のあるシュートやラストパスなど、豊かなアイデアを発揮していましたね。唯一の課題は走れないことだったんですが、攻守における要求の水準を高めることでだんだん走力がついてきて、中3になってからはスピードがぐんと上がった」

サッカー小僧は勝手に伸びていく。

 Jクラブのアカデミーと対戦しても引けを取らず、そのパフォーマンスは夏のJCYインターシティカップ(U-15)で セレッソ大阪強化部の目に留まった。

「ほぼ即決だったはずです。セレッソ側の熱意に加え、育成の豊富な実績、充実した施設を見学し、『ここならプロになりたい自分の夢を叶えてくれる』と話していました」

 3年間、矢野は山田とどのような日々を過ごしたのだろうか。

「基本的には成長の邪魔をしないこと。寛人のようなサッカー小僧は邪魔をしなければ勝手に伸びていきます。中学年代は少し幅を持たせ、伸びしろを残して次のカテゴリーに受け渡すのが大事だということも意識しましたね」

自分の挫折は包み隠さず伝える。

 指導するうえでは、自身の苦い経験がそっくりそのまま役立った。

「過去の挫折は包み隠さず選手たちに伝えています。自分はここで失敗したから、いまのうちにこれをやっておけと。たとえば、僕はオフ・ザ・ボールの駆け引きがまったくできなかったんです。身体能力に頼りきりで、ポジショニングや動き方が身についていない。プロに入ってから、いかに自分がサッカーを知らなかったか思い知らされました。だから、ボールを持っていないときに何をするかが重要なんだというのは何度も重ねて強調しています」

 周囲の期待とは裏腹に、ピッチに立つことすらままならなかった現役時代は矢野に大きな教訓を与えた。

「試合に出ようが出まいが、チームの一員であることを忘れないこと。特に出ていないとき、腐っている時間なんて1秒もない。僕がそれを知ったのは、引退してしばらく経ってからでした。

 この世界は、どこで誰が見ていて、いつ自分に手を差しのべてくれるかわからないもの。もし、サテライトチームにいた自分の取り組み方が違ったら、別の場所に導いてくれる指導者の方がいたでしょう。声がかからなかったのは、ピッチ外の評価もその程度だったということです」

もし時代が違っていれば……。

 事実をストレートに受け入れることは、心の芯に堪えただろう。人々の興味の対象から外れ、どこからも必要とされず、胸に募る寂しさはいかばかりだったか。

 一方で私はこうも思うのだ。当時はJ2が発足したばかりで選手の流動性は低く、プレーする場所の選択肢は限られていた。また、ひとりのスター候補に注がれる注目度も、現在とは比較にならないほど過剰だった。

 今季、トップに昇格した山田はJ3のC大阪U-23を中心に、着々と試合経験を積んでいる。時代が違えば、あるいは環境面の整備が追いついていれば、光の射しこむ展開もあったのではないか、と。

「どうでしょうね。僕の場合は単に実力不足です。寛人はメンタルもしっかりしていますから心配いりません。現状、必要になってくるのは得点の部分かな。ややきれいに決めたがる傾向があるので、もっと泥くさくゴールを求めてほしい。相手に前に立たれても、股下を狙ってシュートを打つといった強引さ、貪欲な姿勢が出てくるとより楽しみです」

おれの夢をおまえが叶えてくれ。

 今年、矢野はS級指導者ライセンスを取得。ナショナルトレセンの東海地区を受け持ち、インストラクターも務めるなど、キャリアの厚みを増している。

「僕は指導者になってからさまざまな出会いに恵まれました。以前は局面しか見えず、選手に伝えられるアドバイスが限られていましたが、いまは全体に目を行き届かせられるようになった。

 自分たちのやりたいことだけを追求していたのが、相手の出方を見て柔軟に変えていけるようになったのも変化のひとつだと感じます。今後、指導者として成長していけるように、キャパシティをさらに広げていきたい」

 刈谷JYは1学年40名、計120名の選手を抱える大所帯である。ネットから和製ロナウドの動画を持ち出してくる教え子には、「やめろやめろ、もう恥ずかしいなあ」と矢野は笑い飛ばすのだそうだ。

「おれの夢を、おまえが叶えてくれよ」

 そう言って思いを託し、矢野は山田を送り出した。はたして、この次世代へのバトンリレーはどのように実を結ぶのか。ふたりのゴールが生まれる瞬間が待ち遠しい。

文=海江田哲朗

photograph by Tetsuro Kaieda


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