小谷野栄一は引退表明後も全力で。松坂世代とオリックスに送る感謝。

小谷野栄一は引退表明後も全力で。松坂世代とオリックスに送る感謝。

 引退記者会見を行った翌日の9月28日、オリックスの小谷野栄一は、ユニフォームを着て、舞洲の二軍施設にいた。10月5日の引退セレモニーに備えるため、数日間離れていたグラウンドに戻ってきた。

「今日が一番バッティングの調子がよかった。カハハハ」と、練習後、楽しそうに笑った。

「引退を伝えて以来、久しぶりに今日動いたんですけど、ノープレッシャーだからなのか、ホントによくて、『これこれ!』と思いましたよ。無欲だからなのかな。こうやって打ちたいとか、ヒット打ちたいとか、そんな欲が今何もないですから。この気持ちでやればよかったのかなと今頃気づかせてもらえました」

 前日の記者会見では、引退を決断した理由をこう話していた。

「今年は心と体のバランスが今までにないぐらいズレてきたなと感じて、努力すればするほど、よりズレが大きくなった。打つ方も守る方も全部、『今までだったらこういうふうにできたのに』ということが多くなってきたので」

 会見では、「自分の心はスッキリしていますし、次へのスタートという意味での"引退"」と、晴れやかな表情だった。

 ただ、「悔しいのは福良さんを胴上げできなかったこと」と心残りも口にした。

救ってくれた福良監督の言葉。

 小谷野の引退会見の2日前に、今季限りでの辞任が報じられた福良淳一監督は、日本ハム時代からの恩師だ。2014年のオフに小谷野がFAでの移籍先にオリックスを選んだのも、福良監督が当時オリックスのヘッドコーチを務めていたから。

 その福良監督からの印象に残っている言葉を聞かれると、小谷野はこう答えた。

「『何分でもいいから、(グラウンドに)立ってみようか』という言葉。あの言葉のおかげでもう一度、野球選手を続けられたので」

 小谷野は日本ハム入団4年目の2006年にパニック障害を患い、一時は外出できない状態となり、練習できない日々が続いた。しかし当時、日本ハムの二軍監督代行を務めていた福良監督は、フェニックス・リーグに小谷野を呼んだ。その時の言葉が、「何分でもいいから、立ってみよう。何かあったらすぐタイムかけてあげるから」だった。

「感謝できるのは病気のおかげ」

「そこからスタートして、本当に何回でもタイムをかけてくれて、打席に送り出してくださった。その言葉で前を向かせてもらったので、本当に大きかった」と小谷野は振り返る。

 その翌シーズン、小谷野はレギュラーを勝ち取り、勝負強い打撃で2010年には打点王のタイトルを獲得。3度のリーグ優勝に貢献した。

 小谷野の野球人生を語る上で、パニック障害との戦いは避けて通れない。病気を抱えながら、プロとして一軍で結果を残し続ける日々は壮絶なものだったと想像できるが、小谷野自身は「あまり大変なことだとは思ってなかったですよ」と明るく言ってのける。

「まあ、その時その時で大変な思いはしましたけど、自分を成長させてくれる、僕にしか超えられない試練だと思っていましたから。いろいろなところに感謝できるようになったのも病気のおかげだし、すべてに意味があるんだなと、今思わせてもらっています。試合前は毎日吐いていましたし、チームのみんなも見てましたけど、それでも野球がやれるんだったらという思いだった。それが僕の個性だから」

楽しめばいい、の重みが違う。

 試合前に嘔吐する小谷野の姿を見て、はじめは動揺したチームメイトもいた。オリックスの後藤駿太はこう回想する。

「僕、最初、超ビックリしちゃったんです。でも栄一さんは、『気にしないで。オレ、これしないと試合に入れないから』って。それを聞いて、ただただすごいなと。本物のプロフェッショナルというか、(試合の)3時間半にかける思いというのは、相当なものなんだなと感じました」

 後藤が小谷野から言われて印象に残っているのは、「自分にあまりプレッシャーをかけすぎないで、楽しくやればいい。自分が楽になるように考えてやればいいんだよ」という言葉だったと言う。

「記事で小谷野さんの病気のことを知って、あ、そういう経験をしている人だったんだと。あの時言ってくれた言葉は、小谷野さんにとっては本当に重い言葉だったんだと気づきました。他の人が『楽しめばいい』と言うのとは、重みが全然違うと思います」

「こやじい」なんて呼ばれたり。

 普通なら自分のことだけで精一杯になってもおかしくないが、小谷野は非常に面倒見のいい兄貴分だった。「教える=押し付ける、になってしまうから」と、自分からアドバイスをすることはないが、誰かが相談すると、親身になって、その選手の目線でわかりやすく伝える。

 実績豊富な37歳のベテランだが、歳の近い選手から1年目の若手まで、誰にとっても近づきやすく、つい頼ってしまう存在だ。

 その親しみやすさは報道陣に対しても変わらない。質問を投げかけるといつも丁寧に答えてくれた。

「そこはオリックスに来て、みんなが僕を変えてくれた」と小谷野は言う。

「以前はくそ生意気だったし、自分のことで精一杯で、自己中だったと思う。それでも日本ハムで稲葉(篤紀)さんや金子(誠)さん、飯山(裕志)さんといったいい先輩たちに徐々に変えてもらって、同級生の(森本)稀哲が僕の強がりな性格をいい方向に引き出してくれた。その上でオリックスに来て、成長させてもらえた。奥さんにも、『変わったね。変えてもらったね』と言われるぐらい(笑)。

 以前はいじられるってことがまずなかったけど、こっちに来たらいじられました。ツカ(塚原頌平)には『こやじい』なんて呼ばれますからね。昔だったらボッコボコにしてたでしょうね、アハハハ。最高です。

 オリックスは本当に人間的によくて、魅力的な子が多い。本当に出会えてよかったなと思います。そういう選手たちのプレーが、結果にも結びついて、世間の人がもっと彼らの人間力に気づいてくださればいいなと思いますね」

松坂はこんなもんじゃねーからな。

 今年は杉内俊哉、後藤武敏、村田修一といった松坂世代の選手たちの引退が続いたが、小谷野も松坂世代の1人である。

 引退会見では、「松坂世代と呼ばれることに誇りを持っている」と語った。

 小谷野は松坂大輔と同じ東京都江東区出身で、小学生時代はライバルチームで対戦し、江戸川南リトル、シニアではチームメイトだった。

 一番長い間、松坂を追い続けてきた小谷野は、松坂がメジャーから日本球界に復帰して以降、再戦を心待ちにしていた。松坂がソフトバンクにいた昨年4月、オリックス戦で松坂の登板が予定されていたが、回避されてしまった。その時、残念がりながら、小谷野はこう訴えていた。

「今、みんなに伝えたいのは、『松坂はこんなもんじゃねーからな』ということ。僕ら同学年はみんな、同じ思いだと思います」

マツの気遣いはさすがだなと。

 その言葉を、今年、松坂は証明してみせた。そして5月30日の交流戦で、小谷野は松坂との13年ぶりの再戦を果たす。無安打に終わったが、「純粋に楽しかった」と満足そうだった。

 小谷野が松坂に電話で引退を伝えると、笑いながら「(オレから)ヒット打ってないじゃん」と言われたという。

「そう言われてまだ『くそ!』と思えた(笑)。でも体が動かないからなーと。あいつなりにそういう返し方をしてくれて、さすが、やっぱり超一流の選手は、ユーモアがあって、心を和ませてくれるんだなと、気遣いがさすがだなと思いましたね。マツがそう言ってくれて、なんかスッキリしました」

 今、小谷野の言葉には、周囲の人々へのリスペクトと感謝があふれている。

引退試合後も練習に励む日々。

 9月28日には、ウエスタン・リーグの最終戦が舞洲で行われ、9回裏、小谷野は代打で打席に立った。中日のマウンドには日本ハム時代の同僚、谷元圭介が上がり、1球目は豪快な空振り、2球目をサードゴロに打ち取られた。試合後はファームの選手たちに胴上げされ、涙があふれた。一度目の引退試合だ。

 しかし次の日も、その次の日も、小谷野は10月5日の今季最終戦に備えて、変わらず舞洲で練習するという。

「もう一度体を作っておこうかなと。最後まで選手をやらせてもらえるんだったら、1日でも(練習しないと)もったいないから」

 選手としてグラウンドに立つ限りは、できうる限りの準備をして、最後まで全力を尽くす。16年間見せてきた姿を、小谷野らしく最後の日まで貫く。

文=米虫紀子

photograph by Kyodo News


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