豪華施設、超速昇格、セルジオ越後。ベルマーレのルーツは伝説の社長。

豪華施設、超速昇格、セルジオ越後。ベルマーレのルーツは伝説の社長。

 知らずに来場した人は面食らったかもしれない。

 ピッチに現れた選手たちがまとっていたのは黄色のシャツに緑のパンツ。ジェフ千葉ではない。舞台は平塚競技場(Shonan BMWスタジアム平塚)。湘南ベルマーレである。クラブ創設50周年を記念して、その前身「フジタ」の復刻ユニホームで登場したのだ。

 フジタが日本リーグの名門だったことはご存知の通りだろう。といっても「黄色と緑」に懐かしさを覚えるのはすでにオールドファン。黄金期は1970年代後半から'80年代にかけてだから、強烈に記憶に刻んでいるのは50代以上ということになるだろうか。

 とにかく1977年からの5年間で日本リーグを3度制し、天皇杯も2度優勝。日本サッカーに一時代を築いたチームだった。

 もっとも「50周年」は、そのフジタよりもさらに先祖返りが必要だ。ベルマーレの前身であるフジタの、そのまた前身である「藤和不動産サッカー部」。その創部から数えて50年、それが今年なのである。

創部4年で県4部から日本リーグ。

 ところで、この藤和不動産。知っている人はほとんどいないのではないか(セルジオ越後の名前を出せる人はかなりのサッカー通!)。

 しかしこのチーム、面白いのだ。面白いだけでなく、極めて先駆的。見方によっては、早すぎた異端児……。

 そこで、この機会に藤和不動産サッカー部について書いておきたいと思う。

 いまから50年前――終戦から20余年が経ち、日本が戦後復興から経済発展へと踏み出した頃、その象徴として開催された東京五輪で日本代表がベスト8に勝ち上がり、翌年には日本初の全国規模のリーグ戦「日本サッカーリーグ」を発足させ、サッカー人気が急速に高まっていた頃、栃木県の那須高原で旗揚げした伝説のチームである。

 常識外れのスピードで日本サッカーのピラミッドを駆け上ったチームだった。

 創部は1968年。そこからわずか4年で日本リーグまで駆け上がった。

 ちなみに結成年に参戦したのは栃木県4部リーグ。トップリーグである日本リーグから数えて6部に相当するカテゴリーである。にもかかわらず4年で到達した。大勝の連続だったからだ。

21点取った試合もあったらしい。

 初年度、栃木4部では2桁得点は当たり前(21点取った試合もあったらしい)。おかげで2部、3部の優勝チームとの昇格決定戦が実現。これに勝った藤和不動産が“飛び級”で1部に上がることになったのである。

 そんな強さは有力選手の獲得によるもの……と考えがちだが、そうではない。

 結成時の選手は20人弱。しかし、このうちサッカー経験者は実は5人だけ。なかには社員ではなく、大学生もいたというから、とにかく人数を集めて登録し、リーグに参加した。そんな旗揚げだったのだ。

 チームが急速に力をつけ始めるのは2年目からだ。この年、大卒の新戦力を獲得(といってもまだ準レギュラークラス。有力選手を獲得できるようになるのは関東リーグ入りした3年目から)。栃木県1部に所属しながらも、練習試合では日本リーグの名相銀をはじめ、東海リーグのトヨタや関東リーグの富士通から勝利を挙げるまでになるのである。

那須に専用練習場、名指導者も。

 そんな急成長の背景には恵まれた環境があった。藤和不動産が手掛けていた「那須ハイランド」に専用練習グラウンド、合宿施設などを設置。それもグラウンドは芝生3面、全24室すべて個室の合宿所(コテージ風)には栄養士がつき、選手の食事を用意した。夜はビデオテープを使ってミーティングまで行なっていたという。

 これは当時、日本リーグのチームでさえ練習場所を転々としていたサッカー界では図抜けた施設。しかも、すべてが1カ所に集中していたから、会社と練習場を移動しなければならなかった他チームにとっては垂涎の環境だった。

 そんなわけで日本リーグ勢が施設を借りに来ることもあった。三菱重工(現レッズ)が合宿を行なった際、同行していたドイツの名指導者バイスバイラーが絶賛したという逸話も残っている。それほど先駆的な環境を藤和不動産サッカー部は有していたのである。

 もちろん環境がいかに恵まれていてもそれだけでは選手は成長しない。その意味では石井義信コーチの存在も大きかっただろう。サッカー協会の技術委員としてデットマール・クラマーのアシスタントも務めていた石井が(陸上のトレーニングを導入するなど)斬新な指導で、選手たちを鍛え上げていったのだ。

 ちなみにこの頃、石井は東洋工業で日本リーグ優勝を経験した後、現役を引退。当時は広島本社から東京支社に転勤となり、サッカーから離れていた。そんな石井に、サッカー部の立ち上げに奔走していた黒木芳彦(初代監督)が声をかけ、藤和不動産に引き入れたのである。

社長の鶴の一声でサッカー部創設。

 そして、その黒木にサッカー部創設を指示したのが藤和不動産社長の藤田正明。

 実はこのチーム、彼の鶴の一声で結成されたのだった。

 藤田正明は、名前からも察せられる通り、フジタ創業家の次男。グループ企業の藤和不動産で社長を務めるとともに政治家としても活動。後に参議院議長にも就く親分肌のリーダーだった。

 そして自らも修道高校、早稲田大学でプレーしたサッカーマン。同時に世界の事情にも詳しかった。そんな彼の慧眼と剛腕が、このチームの最大の推進力だったのである。

 たとえば「強化のための環境作りには金は惜しまない」。強くなるためには練習と休養と栄養が必要だと認識していた彼だからこそ、日本スポーツ界屈指の那須の施設は完成した。

「野球はアメリカと日本だけ。将来、必ずサッカーの時代が来る」が持論だった。そればかりか「強くなるためにはプロを作らないとダメだ」とまで口にしていた。Jリーグができる25年も前である。

 それどころかアマチュアリズム全盛で、「プロ」と言う言葉自体が嫌悪され、御法度だった時代に、藤田は将来のプロ化を見据えてサッカー部を作ったのだ。

本物のセルジオ越後を“輸入”。

 そんな藤田の考えはチームが日本リーグ入りした1972年に、サッカー界に波紋を起こすことになる。

「うまくなるには本物に触れないといけない」

 インターネットはおろか、衛星放送もまだなかったこの頃、ヨーロッパや南米のサッカーを目にする機会はほとんどなかった。ならば、と藤田は本物のプロ選手を“輸入”してしまうのだ。

 それがセルジオ越後である。もちろん日本サッカー史上初の「元プロ」選手の獲得にアレルギー反応は強かった。そして翌年には「外国人選手の出場は来日、登録してから6カ月間認めない」という新たな規約が設けられることになるのである。

 藤田の発想は四半世紀早かった。早過ぎたと言ってもいい。しかし、そんなオーナーに牽引されて藤和不動産サッカー部は頭角を現し、フジタを経て、ベルマーレへと辿り着くのである。

読売クラブとも仲良しの異端。

 そういえば高校生を集めてユースチームを作ろうとしたことも……と続けるときりがないので今回はこの辺で。しかし現在のJクラブと同じような組織を当時すでにイメージしていたのである。

 その意味で企業名を冠してはいたものの、藤和不動産サッカー部は「クラブチーム」的な色合いの強いチームだったと言える。

 そして、そう考えれば読売クラブと仲がよかったのもうなずける。企業チームで占められたサッカー界にあって、明らかに異端だった両チーム。だからこそ通じ合うものがあったのだろう。

 付け加えれば、この1960年代はこの2チームだけでなく、横浜市中区スポーツ少年団(1964年・横浜フリューゲルス)、甲府クラブ(1965年・ヴァンフォーレ甲府)など、後にJリーグ入りするチームが相次いで創設された時代でもあった。

 本流ではなかった、まだ小さな流れ。しかし、その最初の一滴が、日本の各地で同じ時期に湧き出していることは興味深い。

文=川端康生

photograph by J.LEAGUE


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