「スクール☆ウォーズ」が再び蘇る!『伏見工業伝説』、小畑親子の夢。

「スクール☆ウォーズ」が再び蘇る!『伏見工業伝説』、小畑親子の夢。

 JR三ノ宮駅のホームで、大阪行きの最終電車を待っている時だった。周囲の雑音に割り込むように、携帯電話が鳴った。その日(10月5日)は、『伏見工業伝説』が発売になった日でもあった。

「夜分にすいません。小畑です」

 電話口の声は、震えていた。だいぶ、酒が入っていたのかも知れない。泣いているようにも聞こえた。

「これが本当のスクールウォーズですわ。これこそが、俺たちがやってきたことなんです。思い出すと、涙が出てきてね。何回も読み返しました。自分がやってきたことを、同じ道を、今、せがれがたどってくれとる。俺たちでは決して成し遂げることができんかった夢を、40年が過ぎて、せがれが叶えてくれようとしとるんです。こんな幸せなことって、ありますか? 天国の嫁も、きっと、喜んでくれていますわ」

 1980年代に大ヒットしたドラマ「スクール☆ウォーズ」の冒頭で、不良生徒が、校舎の廊下をバイクで走らせる場面がある。電話の向こうにいる小畑道弘は、そのモデルとして描かれた人物だった。

 1975年5月。その題材となった京都の伏見工業は、0−112で強豪の花園高校に大敗する。当時のキャプテンだった小畑は、「悔しい! 俺は勝ちたい」と泣き叫んだ。

 そして、屈辱を忘れないようにと、伏見工業に就任したばかりだったラグビー元日本代表の山口良治監督は部員ひとりひとりを殴りつけた。ドラマで描かれたあまりにも有名なシーン。それから40年以上の月日が流れた。

 小畑は還暦を迎える年齢になり、その長男は父の背中を追い続けている。

小2で見た「スクール☆ウォーズ」。

 ラグビー・トップリーグの神戸製鋼コベルコスティーラーズが、11月1日に来季の新加入選手8人を発表した。そこに、帝京大学のスクラムハーフである小畑健太郎の名前があった。

 彼こそが、小畑道弘の長男である。

 小学2年生の時、再放送で流れていた「スクール☆ウォーズ」を見たのが、ラグビーを始めるきっかけだった。体は小さいが、負けん気だけは人一倍強かった。そんな少年は、いつしか父と同じ道を歩んだ。それは、ごく自然なことだった。

 伏見工業では父と同じように主将を務めた。帝京大学に進むと、スタンドオフからスクラムハーフに転向し、大学1年からレギュラーをつかんだ。入学から3年連続で日本一を経験。最終学年となる今季、史上最多を更新する大学選手権10連覇を目指す戦いが、既に始まっている。

「ワールドカップを目指したい」

 今年の初夏のこと。都内の喫茶店で、健太郎と待ち合わせた。

『伏見工業伝説』の取材のためだった。40数年前の父がそうだったように、荒くれ者の青年を想像していたが、初めて会った彼は、いい意味で期待を裏切った。礼儀正しく挨拶をすると、背筋をピンと伸ばしたまま、いつまでも取材に受け答えしてくれた。

「10連覇は自分たちの力で、ぜひとも成し遂げたい目標です。それと、日本代表になりたいです。ラグビーをやり続けている限り、できるところまで挑戦を続けたい。チャンスがあるのであれば、ワールドカップを目指したいと思っています」

 誰よりも健太郎を愛し、応援し続けてくれた母の和美はもう、この世にはいない。伏見工業3年だった夏にくも膜下出血で倒れ、長い闘病生活の末に、2017年3月26日に旅立った。

 どれほど時間が流れても、悲しみが癒えることはない。取材の時も、母の思い出を問うと「すいません。オカアのことは、勘弁してください。泣いてしまうかも知れないんで」と口を閉ざした。

父に日本代表を目指す姿を見せたい――。

 いくつかあったトップリーグの強豪チームからの誘いの中から、神戸製鋼を選んだのには理由がある。神戸から実家のある京都までは車で1時間ほど。妻を失ってからというもの、元気がなくなってしまった父・道弘に、日本代表を目指す姿を見せたい――。そんな思いがあった。

「俺がこうやっておるんは、山口先生のおかげなんです。教師がみんな、あんな山口先生みたいな人ばかりやったら、誰も、悪いことなんかせえへん。あの人は、俺たちに夢や目標を持つ生き方を教えてくれた。ほんまに、人生の恩人なんです。山口先生に教えられ、そして、せがれも同じように伏見工業に育ててもらって、日本一を目指すまでになった。

 健太郎が初めて帝京大学で優勝した時、嫁はんは、病室で涙を流して喜んでましたわ。来年、神戸製鋼に進んで日本代表にまでなったら、また、天国で大喜びすると思います。俺も楽しみにしとるんです」

 1970年代、学校は荒れていた。山口良治が赴任した1974年、伏見工業はバイクの事故件数が京都府下の高校でワーストと呼ばれ、校内暴力は日常茶飯事。教室の隅では、タバコやシンナーの臭いが漂っていた。1975年にラグビー部の監督に就任すると、わずか6年で全国高校ラグビーで日本一に立った。その道程は、ドラマとして描かれた。

 時代は昭和から平成に変わり、その平成も終わりに近づきつつある。

 伏見工業は、今年4月に京都工学院に名称が変更になった。

 新たなスタートを切った京都工学院ラグビー部は、京都府予選決勝まで勝ち進み、11月11日に全国大会“初”出場をかけて京都成章と対戦する。

 どれほど時が流れても、変わらないものがある。夢や目標を持つ生き方――。

 伏見工業の名称は消えても、その伝説は、今も、受け継がれている。

文=益子浩一

photograph by AFLO


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