スピードスケートに不可欠の土台、開西病院と十勝地方の幸せな関係。

スピードスケートに不可欠の土台、開西病院と十勝地方の幸せな関係。

 今年2月の平昌五輪で、日本勢が金銀銅メダルを量産したスピードスケート。その新しいシーズンが、11月16日から18日まで開催されたワールドカップ帯広大会から本格的にスタートした。

 会場の明治北海道十勝オーバルは十勝地方からの観客を中心に超満員。高木菜那&美帆姉妹や、小平奈緒らに声援が降り注ぐ中、ともに大きな声援を受けたのがソチ五輪出場のベテランスプリンター辻麻希(開西病院)だった。辻は女子500m初日に3位となって表彰台に上がり、同種目の2日目も7位と存在感を示した。33歳になってなお世界のトップと争う姿は、会場のボルテージを大いにアップさせた。

 このとき、辻を優しい目で見守っていたのが、医療法人社団博愛会開西病院の細川吉博理事長。「開西病院スケート部」が辻の所属チームである。

小平奈緒と言えば「相澤病院」。

 平昌五輪では、選手団主将を務め、女子500mで金メダルに輝いた小平の所属先が長野県の「相澤病院」であることが注目を浴びた。スポーツ選手の所属先と言えば、宣伝・広告の役割を期待する企業が一般的で、所属先はスポンサーとして見られることが多い。そのため、病院が所属先というのは、意外だと思われたようだ。

 ただ、スピードスケート界では「病院」は以前からなじみのあるものだった。それは、'06年4月に発足し、以後現在に至るまで、13年間に渡って五輪や世界選手権、ワールドカップの舞台に選手を出し続けている開西病院というチームがあるからだ。

 北海道帯広市にある同病院に、医師であり経営者であり、'06年にチームを立ち上げた細川理事長を訪ねた。そこには地域に対しての責任感、スケートへの思いがあふれていた。

「真冬には氷点下20度以下になることも珍しくない帯広では、元々スピードスケートが盛んでした。地域の小中学校では毎年12月になるとグラウンドに水を撒き、天然リンクをつくっていました。冬は毎日スケートで滑って遊ぶというのが十勝の子どもたちの日常。温暖化している昨今は、1月中くらいしか凍らないのですが、以前は12月から3月まで天然リンクで滑ることができました」

スポーツは体も心も健康に。

 古き良き思い出を語る細川理事長は、高木姉妹と同じ北海道十勝地方の幕別町出身。岩手医大を卒業後、北大医学部付属病院の整形外科勤務を経て、37歳だった'96年に帯広市内に開西病院を開いた。病院は100床からスタートし、現在は約2倍の196床。細川理事長は整形外科医として脊椎を専門とし、病院全体で年間約1300例の手術を行なっている。

 大学時代は「盛岡コメット混声合唱団」に入って活動していたが、当時は新日鉄釜石ラグビー部の全盛期。同部の主将を務めていたプロップ洞口孝治('99年逝去)に顔が似ているということで誘われ、盛岡市の社会人チームでラグビーをやった。

 チームには黒沢尻工業OB、そして秋田工業OB、盛岡工業OBなど花園での優勝経験のある選手がおり、7部からのスタートだったが3、4年間で6部、5部、4部へと上がった。

「私は下手だったけど、周りがうまくてどんどん強くなりました。当時の仲間とは今も繋がりがあります。どんなスポーツであろうとスポーツは楽しい。体も心も健康になる。スポーツとは本当に良いものだと思っています」

高校卒業後、受け皿がない。

 このような考えを持っていた細川理事長が、帯広・十勝地方のスケート少年団などで鍛えられてきた子どもたちが高校を卒業した後に地元を離れ、五輪に出るような年齢になったときには帯広にはもういないという状況に忸怩たる思いを抱くのは自然なことだった。

 ただ、原因そのものは明らかだった。スケート選手が高校を卒業した後の受け皿が地元になかったのだ。将来性が豊かな選手は関東の強豪大学や、大手企業が持つスケート部に進んでいったが、それは当然と言えば当然だった。

「帯広を出た子どもたちが『帯広』の冠を持っていない。自分としてはそのことについて、これで良いのかと思っているところがあったのです。高校や大学を卒業した後にスピードスケート選手を受け入れる企業、生活をきちんと保障してあげられる企業がないのはいかがなものなのだろうかと」

活動費は1人あたり250万円ほど。

 '06年2月のトリノ五輪が終わってから少し経った時のことだった。帯広の居酒屋でたまたま隣り合わせになった紳士が「個人的にスピードスケートの選手を応援している」と話していた。

 詳しく聞くと、所属チームに企業名をつけているわけではなく、年間100万円ほどの個人サポートだという。そして、「企業としてスケート選手を応援してくれるところがなかなかないんですよ」とこぼしている。

 細川理事長はそこで「どれぐらいの応援をしたらいいんでしょうかね」と尋ねてみた。すると、月給に加えて遠征費などで掛かる活動費は1人あたり250万円ほどだという。(※大卒者の平均初任給額は厚生労働省の平成29年賃金構造基本統計調査結果によると20.6万円)

 紳士から「できる範囲でいいですから応援してあげてください」とお願いされた細川理事長は、日頃から地域の病院として果たす役割は何だろうかと考えていたこともあり、その場で「それなら頑張りましょう」と言ったのだった。

五輪代表の川原が監督に。

 紳士の行動は驚くほど素早かった。居酒屋の席に座ったまま携帯電話を取りだし、帯広で長くスケートの指導に携わっているインスブルック五輪、レークプラシッド五輪代表の川原正行(当時帯広市教育委員会職員)に電話を掛けた。

 川原は突然の話に驚きながらも、スケートを続けるために所属先を探していた平子裕基と土井槙悟を紹介。細川理事長は2人を'06年4月に開西病院の職員として採用し、同5月から開西病院スケート部の活動が始まった。川原は監督を務めることになった。

 長距離選手の平子は明大1年だった'02年にソルトレークシティー五輪に19歳で出場したが、'06年トリノ五輪は出場権を獲得できずに所属先を失い、引退も考えていた。土井は早大4年で出たトリノ五輪代表選考会で敗れ、こちらも卒業後の所属先を見つけていなかった。

 当時のスケート界は不況のためチームが減り、北海道内の実業団は岸本医科学研究所(苫小牧)とびっくりドンキー(札幌)の2つしかなかった。十勝地方には長野五輪金メダリストの清水宏保らを輩出した白樺学園のほかにも、長島圭一郎がら出た池田高校などの強豪校がある。その十勝地方に初めて本格的な実業団チームが誕生したことは画期的な出来事だった。

 今でこそスピードスケートでは、ナショナルチームの選手の活動費を日本スケート連盟が負担するようになっているが、'14年ソチ五輪以前は公式大会への派遣などを除けばすべて所属スケート部が出す形だった。

「何千万も出すことはできないけど、それくらいで良いなら、ということで始めました。スケート選手には夢があります。病院として、地域として、応援していこうということになりました」

バンクーバー五輪に2人を輩出。

 このように語る細川理事長には、部をつくった当初から選手にも仕事の現場に関わってもらいたいという思いがあった。病院を宣伝するためだけに選手を雇っているわけではないと考えていたからだ。

「選手としてスケートで頑張ってもらうのはもちろんですが、地元で職を持って活動することが大事だと思うのです。それは、引退した後も子どもたちの指導という形で地元に貢献してほしいからです。ですから、選手には時間が空いている時には自分もスタッフであるという意識で一緒に仕事をしてもらう。それを大前提として雇用していました」

 開西病院に所属し、川原監督の下で生き生きとトレーニングに励んだ平子と土井は、'10年バンクーバー五輪にそろって出場を果たした。

 開西病院はその後、専大を卒業して地元に戻ってきた今野陽太を'11年に、白樺学園卒業後にいくつかのチームを渡り歩いていた辻を12年に採用。辻は'14年ソチ五輪に出場し、今野は五輪こそ出られなかったが、1500mで日本記録を樹立した。

 辻は、オフの間、系列のデイケアサービス施設で働きながら練習を行なっている。

「利用者の方々から頑張ってね、と言われるなど応援してもらうのが嬉しい。力になっています」と辻は言う。一方で、施設の利用者にとっても、アスリートがすぐ隣にいることが活気を生んでいるという。アスリートの元気が利用者を元気づけるのである。

地元企業にも相乗効果が。

 '06年4月に開西病院スケート部が発足したのをきっかけに、十勝地方には多くのスポーツの実業団チームが誕生した。開西病院の取り組みが地元の企業にも影響を与え、新規の企業が真剣にスポーツ支援を考えるようになっていったのだ。

 大所帯のチームはなくとも、それぞれがそれぞれの規模で選手をサポートしてスケート界を盛り上げている。平昌五輪でのメダル量産においてナショナルチームの功績はもちろん大いが、裾野の部分で開西病院が果たした役割もまた大きい。

「それまでも個人スポンサーという形で選手を支援している病院はあったのですが、職員として雇って、選手は給料をもらいながら活動するという形は、開西病院が最初だと思います。こういう形をお見せすることができたのは良かった」

 アスリートは企業の宣伝役であり広告塔であるという既成概念を破り、病院という新たな分野がスケート部を持つというスタイルを打ち出したことにも意義がある。開西病院スケート部が誕生してから3年後の'09年には、小平奈緒の地元である長野県松本市で相澤病院スケート部が誕生した。'17年には加藤条治が所属する博慈会スケート部もできている。

選手のサポートをどうするか。

 開西病院スケート部の部員は現在、辻1人。細川理事長は「みんなが育てたいという選手、将来性のある選手がいるのであれば病院としても応援していく。地域として応援していきたいという気持ちに変わりはない」と語る。

 ただ、今は日本スケート連盟が行なっているナショナルチームによる強化という施策と、企業チームの立ち位置との整合性に揺らぎが生じている過渡期でもある。

 以前はそれぞれの所属チームに指導者がいて、それぞれが一つの家のような形で選手強化をしてきたが、今はナショナルチームが主体となり、選手たちはナショナル専任コーチの指導を受けている。企業チームとしてはここが悩みどころでもある。

「その中で、どのような選手のサポートの仕方があるのか。今後、色々な意味で克服していかなければいけないことだと思っています」

 細川理事長はそう語りながら、この部分を強調した。

「帯広、十勝といえばスピードスケート。ここの人間にとってスケートは自分たちのお家芸です。スケート靴を履いたことがない人はゼロに近いんですよ。ですからやはり、地域での役目というのがあると思っています」

平子の引退試合を目にして……。

 '06年のスケート部創設後、'10年バンクーバー五輪、'14年ソチ五輪、'18年平昌五輪とすべて現地観戦してきたという細川理事長だが、最も心に刻まれている出来事は、'12年3月にオランダ・ヘーレンフェーンで開催された世界距離別選手権だという。細川理事長はこの試合を最後に引退する平子を応援するため、オランダに足を運んでいた。

 満員のファンでふくれあがっている会場では、平子がスタートラインに立とうとするとき、「これが平子選手のラストレースです」というアナウンスが流れた。すると、スタンドから万雷の拍手と声援が降り注いだ。

 身長167cm、体重60kg。大男たちと比べるとひときわ小柄な平子の、正確にラップを刻む小気味よい滑りはスケート王国にも認められていた。1万mを11位でフィニッシュ。滑っている最中、そしてゴールのとき、拍手はしばらく鳴り止まなかった。

「本場の観客がこんなに拍手をしてくれている。こういう素晴らしい選手と一緒にやっているんだと、ほろっときました」

 平子と土井は引退後、開西病院を離れたが、今も地元のスケート教室で指導をしている。開西病院の職員として働いている今野も、リンクでは良きコーチでもある。

 開西病院が切り開いた帯広での新しい支援スタイル。それはスケート王国を活性化させる土台となり、ひいては日本のスケート界の土台となっている。

文=矢内由美子

photograph by Kyodo News


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