イニエスタの存在がJに与えた恩恵。謙虚で自然体のスター、2年めへ。

イニエスタの存在がJに与えた恩恵。謙虚で自然体のスター、2年めへ。

 外付けハードディスクに溜まった録画番組を、ごっそり消していく。

 年末の大掃除とばかりに、えいやっと消去ボタンを押すと、回復した容量の分だけ自分の身体も軽くなったような気がする。

 サッカー番組なら、シーズン単位だ。基本的に、前のシーズンの試合は消していく。もちろん、なかには消すべきか、残すべきか迷う試合もある。

 そのひとつが、2017-18シーズンのラ・リーガ最終節、バルセロナ対レアル・ソシエダの一戦だった。

 すでにバルサの国内2冠は決まっていて、しかも前節に伏兵レバンテに敗れたことで、無敗優勝の望みも絶たれていた。一方のソシエダも、最終節を前に1部残留を決めている。つまりは消化試合だ。

 けれど、ただの消化試合ではなかった。それは、アンドレス・イニエスタのバルサでの最後の試合だった。リモコンを操作する手がピタリと止まる。

 イニエスタのバルサでの22年間は、始まりも終わりも涙だった。

 12歳の時、故郷のフエンテアルビージャを出て、単身ラ・マシア(バルサの下部組織寮)に入寮したその日から極度のホームシックにかかった色白の少年は、来る日も来る日もひとり涙に暮れていた。心配した両親は2週間おきにラ・マシアを訪れたが、別れ際がまたひと騒動で、いつまでも泣きじゃくるアンドレス少年は、ラ・マシアのちょっとした名物になっていたという。

バルサでの最終戦も涙だった。

 それから22年後。『ムンド・デポルティーボ』紙によれば7917日後の2018年5月20日、ソシエダとの最後の試合を終えたイニエスタは、カンプノウのスポットライトの中にいた。消化試合にもかかわらず集まった8万人を超えるファンが見つめる中、惜別のセレモニーで彼は、こう言って涙を流すのだ。

「僕にとって世界一のクラブで、素晴らしい22年間を過ごせたことを誇りに思います。僕はひとりの子どもとしてここへ来て、ひとりの男としてここを出て行きます。何度も何度も、僕に残るよう求めてくれてありがとう。みんなはいつまでも僕の心の中にいます」

 チームメイトに胴上げされ、手を振りながらスタジアムを一周し、静かに打ち上げ花火を見つめる姿を見て、いや、セレモニーが終わってもひとり無人のピッチに座り、物思いに耽るイニエスタの背中を見て、彼がここで燃え尽きてしまったように感じたのは、おそらく私だけではないと思う。

彼はもうアンドレス少年ではなかった。

 この時、まだ正式発表はなかったが、イニエスタの新天地がヴィッセル神戸になることは、ほぼ既定路線として伝わってきていた。

 だからこそ、心配だった。

 過去を断ち切るには勇気がいる。栄光に満ちた過去ならなおさらだし、あれほど深いバルサへの愛情を目の当たりにしては、気持ちを切り替えるのも簡単ではないだろうと、そんな風に考えたりもしたものだ。

 けれど、彼はもう泣き虫だった12歳のアンドレス少年ではなかった。

 フエンテアルビージャとバルセロナの距離どころではない、およそ1万kmも離れた極東の地での新たな挑戦に向かう34歳のプロフェッショナルは、野心に満ちて、そしてとても楽しそうだった。

「今は神戸での挑戦にワクワクしています。そして、それが上手くいくことも確信しています」

 7月22日、Jリーグデビューを飾った湘南ベルマーレとの試合後、イニエスタはそう語った。

 彼が見つめているのは、ボールが転がる先であって、ボールがあった場所ではない──。

 イニエスタはバルサでの栄光の時代を押し入れにしまい込み、神戸での第2の人生を強い決意とともに歩み始めたのだ。

次々と日本に与えたインパクト。

 それからの約5カ月で、イニエスタがJリーグに打ち込んだインパクトの大きさは、想像を超えるものだった。

 足裏、つま先、ヒールと身体のあらゆる部位を使ったボールタッチ、右足と左足、インサイドとアウトサイドを巧みに織り交ぜながら、飄々と敵陣をすり抜けていくドリブル、そして彼にしか見つけられないスペースに、ミリ単位で供給されるピンポイントのラストパス。観客だけではなく、対戦相手でさえその高度な技に見とれていた。

 お気に入りのシーンはどれだろう。デビューから3戦目、ジュビロ磐田戦で決めた超絶ターンからの初ゴールか、あるいは31節の名古屋グランパス戦で、ルーカス・ポドルスキのゴールをお膳立てしたループパスか。

 個人的には33節・清水エスパルス戦で、藤田直之に通した高精度の浮き球ロングスルーパスがお勧めだ。センターサークルを少し越えたあたりから放たれたボールは、シュルシュルと音を立てるように鋭く曲がりながら清水の最終ラインの背後に落ち、そして藤田の左足にピタリと送り届けられた。

自然に醸成された謙虚さ、素朴さ。

 イニエスタが教えてくれたのは、スペクタクルを生み出すための基礎技術の重要性だけではない。スペクタクルとは対極に位置する「効率性」がいかに大切かも、彼は日本人Jリーガーたちに身をもって説いてくれた。ともすればアップテンポに、一本調子になりがちなサッカーに、「止まる勇気」や「緩急のメリハリ」というエッセンスを、ポトリと一滴垂らしてくれてもいる。

 けれどその教えは、竹刀を持った体育教官のように高圧的ではなかった。バルサでクラブ史上最多の32ものタイトルを手にしたことなどおくびにも出さず、日本のサッカーと選手を心からリスペクトし、常にチームメイトと同じ目線で、ともに成長していこうという謙虚な姿勢で戦う──。

 これだけの実績があるプレーヤーが、普通は簡単にできることではない。

 ただ、イニエスタのこうした謙虚さや素朴さ、献身性は、意図して作り出されたものではない。意識せず、自然に醸成されたものだからこそ、多くの人がその人間性に魅了されるのだ。

 スペインで、アウェーのサポーターからも無条件で拍手を送られたイニエスタは、遠く日本の地でもごくごく自然に受け入れられた。いやむしろ、そのキャラクターは日本人の特性、気質によりフィットしていたのかもしれない。

「華がない」と言われたのが嘘のよう。

 一方で、この謙虚な男は“メディアスター”でもあった。SNSでは家族と日本での生活をエンジョイする写真が頻繁にアップデートされ、それをキャッチアップしようとメディアが必死に追いかけ、ネットに流す。その実力は十分に認めながらも、「華がない」と雑誌の表紙に使うことさえ躊躇われた10年ほど前が嘘のようだ。

 日本の生活環境にすんなり溶け込んだことも含め、イニエスタのJリーグ参戦1年目は、総じてポジティブに捉えていいはずだ。

「バルサ化」を掲げ、大きな転換期を迎えた神戸は残留争いにも巻き込まれたが、それでも変革のうねりの中で、なんとかJ1に踏み止まったことに価値がある。シーズン途中にペップ・グアルディオラの師とも言われるフアン・マヌエル・リージョを指揮官に迎え、終盤戦では来シーズンに向けての方向性も明確に打ち出されている。

 すでにダビド・ビジャや山口蛍の入団も決まり、2019年シーズンはいよいよJ1での優勝争い、そしてACL出場権獲得が現実味を帯びるが、新戦力のビッグネーム以上に期待したいのは、この約半年の間にイニエスタの薫陶を受けて成長を遂げた、古橋亨梧や郷家友太といった若手のさらなる進化だ。

彼から学ぶ選手が現れたら……。

 神戸の選手だけではない。対戦相手も含め、イニエスタと同じピッチに立った選手たちが、彼から何を学び、何を奪い取るか。かつてイニエスタも先輩シャビ・エルナンデスから多くを吸収し、そして模倣するだけではなく、そこから彼独自のスタイルを生み出した。そんな選手がJリーグに数多く現われた時、間違いなく日本サッカーは次のステージへと到達しているはずだ。

 そして言うまでもなく、日本で2年目を迎えるイニエスタへの期待も膨らんでいく。

「これからも、誰よりも激しい練習を積んで、このチームをより高みに連れて行きたいと思っています。(昨シーズン終盤の)チームのフィーリングはとても良くなっているので、来年はより良い結果をファンのみなさんにお届けできると約束します」

 昨シーズン終了後、そう語ったイニエスタは、きっと2019年も謙虚に、自然体で、再び我々にスーパープレーの数々を見せてくれるに違いない。

 バルサ退団セレモニーの最後を、「ビスカ(万歳)・バルサ! ビスカ・カタルーニャ! ビスカ・フエンテアルビージャ!」と言って締め括ったイニエスタ。もしかすると、神戸の優勝セレモニーで、彼が「ビスカ・神戸!」と叫ぶ日も、そう遠くないのかもしれない。

 さて──。

 2019年シーズンのJ1リーグが終わる時、ハードディスクから消せない試合は、どれだけ溜まっているだろうか。

文=吉田治良

photograph by Getty Images


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