難聴を克服して56年ぶりの五輪へ。円盤投げ・湯上の「不器用なので」。

難聴を克服して56年ぶりの五輪へ。円盤投げ・湯上の「不器用なので」。

「寒いですねぇ」

 湯上剛輝は183cmの大きな体躯を少し縮め、指先に息を吹きかけながら円盤投のサークルに向かい、投てきの構えに入った。息を大きく吸いながら、体を大きく開き、直径2.5mのサークルをゆっくりと踏み込むようにターンする。右手から解き放たれた2kgの円盤は夕暮れの空に美しい弧を描きながら飛んでいった。

 サークルから出ると、黒いイヤフォンのようなものを耳につけ苦笑いしながらこう言った。

「今日は寒いので思うように投げられないですね」

 なめらかで力強いターン、力みのない投てき。さすが日本一という姿だった。

3投連続でまさかの日本新記録。

 湯上の名前が全国区になったのは、2018年6月の日本選手権。

 大会3日目に行われた男子円盤投で、湯上は1本目で自己ベストを更新。2投目で念願の60m台まで記録を伸ばすと、3投目で日本記録60m74を上回る61m02の日本新記録を樹立した。

 そこからさらに強さを見せた。湯上は4投目で62m03と記録を伸ばし、5投目では62m16と自身の日本新記録を塗り替えるパフォーマンスで優勝。スタジアムの観客は円盤投、いや湯上の投てきに釘付けになった。

 突然の飛躍の理由は、2017年夏から行っている肉体改造にあった。所属先のトヨタ自動車のラグビーチームのトレーニングコーチにお尻と背中の筋肉の弱さを指摘され、イチから体幹を作り直した。

 40kgのウォーターバッグを持って大股歩行をしたり、シャフトの両脇に重りのついたゴムチューブをつけて持ち上げたり、与えられたメニューは10種類以上。湯上はほぼ毎日取り組んだ。

「その練習を始めて2週間後の愛媛国体で自己ベストが出たので、自分がしていることは間違っていないと思いました」と話す。

 冬季練習ではさらにウェイトトレーニングや体幹運動の時間を増やした。

「地道な練習をコツコツと行うのが好きなんです」

 周囲の選手は湯上を「練習熱心」、「練習の虫」と表現するように、練習の成果が日本記録に結びついた。

難聴は自分の世界に入る武器でもある。

 湯上は先天性難聴を抱え、6年生の時に左耳に人工内耳を埋め込む手術を受けている。普段は耳にマイクの役割を果たす補助器具をつけており、補助器具が集めた音が人工内耳に伝わり聞こえるという仕組みだ。

 試技の際には補助器具を外して投てきサークルに入る。

「補助器具を外すと周囲の音が聞こえなくなって、とても集中できます」

 周囲のざわめき、会場のアナウンス、ほかの種目の盛り上がり。何も聞こえない、静寂の世界に入る。聞こえるのは自分の息づかいと身体の声だけだ。

 呼吸を整え、心身が一致した時に投げに入る。

 自分の世界に入るために、難聴は決してマイナスではない。だが、そこにたどり着くまでに多くの困難がある。

 補助器具は、周囲の音すべてを拾うマイクのような働きを持つ。隣の選手のおしゃべりの声、遠くにいるコーチや観客の声、後ろにいる審判の声。すべての音が耳に入ってくる。

「スタジアムでの選手紹介の時が困ります。隣の選手の動きで『次は自分が呼ばれる』と思っていても、アナウンスがぼやけて聞こえるので、聞き漏らさないように集中します。競技中も試技を飛ばさないように気をつけていますが、投げる前に疲れちゃうんです」

 ほかの選手にとってはスムーズに進むことが、湯上にとってはストレスになる。

「音に関係する部分で疲れます」

 聞こえない困難を乗り越え、武器にする。そんな世界で湯上は生きている。

同じ境遇の子に「大丈夫だよ」と。

 陸上は「消去法」から始めたものだった。幼い頃は球技に興味、憧れを持っていた。しかし6年生の時に人工内耳を埋め込む手術を受けた後、医者からコンタクトスポーツを止められている。

 でも、スポーツがしたい――。そう訴えた少年へ周囲は陸上競技を勧めた。

 100mなど音に反応して行わなければならない種目は難しい。ある程度自分のペースで行えて、体格を生かせる種目が陸上の投てきだった。

「僕には陸上しかなかったんです。(難聴の影響でやれることの)道がどんどん狭まってきた。でも僕は陸上で頑張る道を見つけました。だから今はその道を追究しようと思っています」

 ちょっと目を潤ませながら続ける。

「自分と同じような境遇の子に、『大丈夫だよ』って言ってあげたいんです」

 力強く言い切った後、間をおいてこう続けた。

「僕が競技をしている目的は、夢、希望、感動を届けられる競技者になることなんです。ハンデを持っている人たちの励みになるような、強いメッセージを送ることができる選手になりたいと思っています」

海外勢と仲間になることが必要条件。

 日本代表として初の海外遠征となったアジア大会。自己ベストに4m以上及ばない57m62で6位。メダルには届かなかった。

「自分にプレッシャーをかけすぎてしまいました。メダルを狙っていたので、ちょっと凹みましたね」。

 慣れない海外での試合環境、プレッシャーなど、そして「聞こえない苦労」もあった。

「知らない選手ばかりだったので彼らのユニフォームを見ながら、自分の順番を確認していました。でも予選と決勝で投げる順番が変わったので、『オレ、どこ?』ってなりましたね」

 日本では仲間が「次は湯上だよ」と教えてくれるが、海外選手は湯上の障害を知らない。

 技術面の向上とともに湯上に必要なのは、円盤投の海外勢とも仲間になること。

 ストレスなくパフォーマンスするには、海外選手の助けも少なからず必要になってくる。顔見知りになっていれば、試技の時に声をかけたり、合図をしてくれる選手も出てくるはずだ。積極的に海外遠征に出て、世界で『円盤仲間』を作ることが必須条件になってくる。所属先のトヨタ自動車も「どんどん世界に挑戦してほしい」と積極的に支援を約束する。

「円盤が飛ぶ姿は魅力的です」

 円盤投は陸上競技の中でもどちらかといえば目立たない種目だ。

 湯上は「円盤が飛ぶ姿は魅力的です。投げる時にバチンと決まった瞬間、円盤が本当にきれいに飛んでいくんです。弾けるように、と言ったらいいんでしょうか」と表現する。

 直近の目標はドーハ世界陸上と東京五輪の出場だ。出場のために必要な記録は65m。自己ベストを3m近く伸ばさないといけない。さらに、陸上の男子円盤投げは、1964年の前回東京大会以来、日本選手は五輪に出場できていないのが現状だ。

 しかし湯上には焦りはない。

「できないことをひとつひとつ克服していけば、記録は伸びると思うし、目標は絶対に達成できると思っています。まだまだ力任せに投げている部分があるので、力まずに楽に投げられるようになれば記録は伸びると思います。練習でも自分は不器用なのでできないことが沢山あるんです。1つずつコツコツと地道に努力していきます」

 世界の空に、そして2020年夏の東京の空に、湯上の円盤が美しい軌跡を描くことを期待したい。

文=及川彩子

photograph by Ayako Oikawa


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