立浪和義にとっての「運命の人」。星野仙一は怒りと愛に満ちていた。

立浪和義にとっての「運命の人」。星野仙一は怒りと愛に満ちていた。

2018年1月4日、星野仙一さんは70年の生涯を閉じました。
1年後の今日、星野監督のもとで中日ドラゴンズの主力へと成長した
立浪和義さんがNumber944号(2018年1月18日発売)に寄せた、
恩師への追悼文を全文掲載します。

 星野さんが亡くなられたことが今でも信じられません。昨年の9月にテレビ番組の収録でご一緒した時には元気そうでした。12月に大阪での野球殿堂入りパーティーで挨拶した時にはちょっと痩せたように見えて、顔色も良くなく、しんどそうでしたが、まさかこんなに早く……。

 僕は星野さんに運命を決めてもらった人間だと思っています。1987年のドラフトでは南海の杉浦(忠)監督が僕を1位指名すると早くから言ってくれていて、ほぼ自分の中で南海に行くと決めていたんです。

 ただ、その後、ドラフト直前に中日が指名予定だった選手がプロ入りを回避したため、関係者を通じて1位指名の可能性があると聞きました。僕にはセ・リーグでやってみたい気持ちもあり、スカウトの方を通じて「来たいんなら、俺が引いてやる」という星野監督の言葉も伝え聞いてはいました。そして当日、本当に引いてくれたんです。不思議な縁を感じました。

PLとはまた違った厳しさ。

 もっと驚いたのは、まだ監督になって2年目の星野さんが、高卒のルーキーを球団史上初めて開幕からショートのスタメンで使ってくれたことです。当時は前年のベストナインの宇野(勝)さんが正遊撃手だったので、僕はそんなこと絶対にないと思っていましたし、監督も僕に開幕の当日でさえ言いませんでした。だから、使ってもらってからは、もう毎日、必死でしたね。

 PL学園も厳しかったですが、星野監督にはまた違った厳しさがありました。1年目、試合で塁に出ると他球団の先輩方から声をかけられるので、挨拶を返していたのですが、ベンチを見ると星野監督が怒っているんです。「試合中になに敵としゃべってるんや! ユニホームは戦闘服やぞ!」って。だからと言って挨拶を返さないわけにはいかないので、それからは監督に見えないように、こそっと挨拶していました。

 どんなに遠くにいても星野さんがグラウンドに入ってくると緊張しました。打者がボール球を振って戻ってくると、試合中のベンチでそのままどやされましたから、その様子を見て、逆にこれから出番の控え選手たちがガチガチになっていました。

落合さんを怒った衝撃。

 ある時、大差で勝っている試合で、こう檄を飛ばしたことがありました。

「お前ら、勝つだけじゃだめや。明日も試合があるんやから倒れてる奴が起き上がってこれんぐらい、踏みつけてこい!」

 そういうところから、勝負に対する厳しさや執念を教えてもらいました。何より怖かったのはミーティングの最初から冷めたような笑みを浮かべている時です。そういう場合は本当に怒っている時でした。

 プロ1年目で一番、衝撃的だったのは落合(博満)さんを怒ったことでした。'88年の5月か、6月くらいだったと思います。落合さんはスロースターターで徐々にペースを上げていく方なんですけど、星野さんはミーティングで「落合! 何月だと思ってるんや!」と怒鳴ったんです。落合さんはあの時、すでに三冠王を3度獲られていて、そんなずば抜けた実績の人を怒れる監督はいないと思っていました。あの時は選手全員がピリッとしました。

激しさ、厳しさの中に愛情。

 その後、自分がチームの中心になった頃には、星野さんがなぜあの時、落合さんを怒ったのかがわかるようになりました。ナゴヤドームができた’97年、チームは最下位に沈んで、その頃は僕や中村(武志)さんが試合前のミーティングで「カズヨシ! タケシ! お前ら何やってんだ!」とよく怒鳴られました。監督はチームの主力を怒ることで、全員にメッセージを送っていたんだな、と気づきましたね。同じ怒るのでも、怒り方があるんだ、と。

 こうして振り返ると怒られてばかりだったように思いますが、あの人の場合、激しさや厳しさの中にふと愛情を感じるんです。「もう使わん!」と怒鳴った選手は必ず次の日に使いました。僕だけではなく、みんなに対してそうでした。

 2000年、僕が判定に納得がいかなくて、球審の胸をどついてしまったことがありました。すると星野さんが真っ先にベンチから飛び出してきて、審判に体当たりして一緒に退場になったんです。普段から「乱闘には絶対に出遅れるな」と言っていましたが、あの時も自分が真っ先に出てきて僕を守ってくれたんだと思います。

 また、甲子園で激しい雨の試合中に控え選手が、監督が濡れているのを気にして雨よけを出そうとしたら「そんなもんいらん!」とものすごい剣幕で怒鳴られてました。選手と一緒に戦う、親分肌のところがありました。

 選手にとっては10回怒られて、1回褒められるというくらいの割合だったと思うんですが、たまに褒められるのがすごく嬉しくて、みんなそのために頑張っているようなところがありましたね。怒りに愛情を込められる、そういう人でした。

2人で涙を流した時のこと。

 忘れられないのは'90年代の終わり頃、僕は故障を抱えながらプレーしていて成績も芳しくなかったんですが、その時、監督室に呼ばれたことがあったんです。

 ああ、また怒られるなと思ったら、星野さんは静かに「お前、どうしたんだ? 何か悩みでもあるのか?」と聞いてくれて。「何もないです」と答えたら、「そうか。ならいい。もし何かあるなら、いつでも言ってこいよ」と言ってくれたんです。滅多にかけられない優しい言葉に僕はホロっときて、その場で涙を流してしまったんです。そうしたら監督ももらい泣きして、2人で泣きました。

 その後、阪神の監督時代にリーグ優勝して、楽天の監督として日本一になりました。球界の一流選手からも慕われるようになり、僕らとしては多少の遠慮はあるんですが、ユニホームの色が変わっても、ずっと監督と選手の間柄だったような気がします。引退した後も年に1回は必ず電話したり、会ってお話しさせてもらったりしました。

 今は最先端のトレーニングなどで選手の体力、技術は上がっています。褒めて伸ばす時代とも言われます。ただ、星野さんのように厳しさで伸ばす、怒って愛される人はいません。今の時代の良いところと、星野さんが残してくれたものを融合させていくのも僕らの役目なのかなと思っています。

(構成/Number編集部・鈴木忠平)

(Number944号『独占追悼手記“怒りと愛の人”星野仙一。』より)

文=立浪和義

photograph by Koji Asakura


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