愛されている明治大学ラグビー部、日本一奪還までの22年と田中監督。

愛されている明治大学ラグビー部、日本一奪還までの22年と田中監督。

「本当に、明治って愛されてるなあと感じました」

 明治大学ラグビー部主将の福田健太は、上気した顔で言った。

 ラグビー大学選手権決勝で、明大は22−17で天理大を破り、22年ぶりとなる大学選手権優勝を飾った。表彰式を終えると、明大のメンバーたちは場内一周のビクトリーウォークに出た。

 バックスタンドの最前列には、年齢も性別も外見もいろいろな、本当にたくさんのファンが押し寄せ、握手、ハイタッチ、記念撮影をせがむ。何百人、何千人残っていたのだろう。その誰もが、底抜けの笑みを浮かべていた。

 愛されているチーム。

 22年ぶり、待ちかねた優勝だから感激もひとしおなのだろう。22年も優勝から遠ざかっていたのに、これだけたくさんのファンが諦めずに待っていてくれたのもすごいことだ。

4年生が生まれたのは'96年度。

 福田らいまの4年生は、前回の優勝、1996年度に生まれている。強かったときの明治を知らない。

「父は早稲田なんです。家庭内早明戦に勝ちましたね」と福田は笑った。子どもの頃は早明戦をテレビで見て、父が応援する早稲田を一緒に応援していたというが、何度か見るうちに、明治に魅力を感じるようになった。そして大学進学に当たっては「帝京大を倒したい」という一念で進路を考え、明大を選んだ。

「高校日本代表候補の合宿とかで、同期の仲間と『明治へ行こうぜ』という話が盛り上がったんです」と福田は明かす。

 しかし……だ。そもそも、なぜ明治は22年も頂点から遠ざかっていたのか。

 明大の前回の優勝は1996年度だった。

 その年のシーズンが始まって間もない春。5月28日に北島忠治監督が死去した。

 初代監督として60年以上も指揮を執り、明大ラグビーの象徴と呼ばれた大監督の逝去に、明大ラグビー部は紫紺のジャージーの襟を喪章代わりの黒襟にして、シーズンを戦った。

「勝てない明治」の歴史。

 監督は、北島監督の側近だった寺西博ヘッドコーチが後継した。このシーズン、明大は前年度に失った対抗戦グループの優勝を全勝で勝ち取り、大学選手権決勝では2年連続の早明対決を制し、2年連続の優勝を飾った。優勝回数は12回目で、それに次ぐのは早大の10回。伝統、実績、実力、すべての面で明大ラグビーが学生ラグビーの頂点に立った瞬間だった。

 その翌年、1997年度に主将を拝命したのが、現監督の田中澄憲だった。

 ところが、その年から「勝てない明治」の歴史が始まるのだ。

 発端はOB会の内紛だった。

 OB会費に多額の使途不明金が見つかったのを端緒に、OB会の派閥抗争が始まった。やがて、たくさんの大人が学生に接触してきた。学生を守ろうという善意の人もいたかもしれないが、その見分けを学生に求めるのは酷だった。

学生自身が仕切る体制。

 主将の田中は「大人は入れない」と決断した。監督はおかず、大学職員のOBに部長職をお願いしたほかは、ごく少数のOBがコーチとして名を連ねたが、実質的には学生が部を運営した。

 無謀だったと決めつけることはできない。当時、取材していた記者自身も、その選択はやむを得ないものと思った。

 実のところ、前年度までの大学選手権2連覇も、実質的には学生自身が仕切る体制で、頂点を奪っていた。そして、田中が率いた明大は対抗戦グループで全勝優勝を飾り、大学選手権でも決勝に勝ち進んだ。

 最終結果は、初めて決勝に勝ち上がってきた関東学院大に17−30で敗れたのだが、翌週行われた日本選手権では実力を証明した。大学選手権で優勝した関東学院大がトヨタ自動車に22−73と大敗したのに対し、明大はサントリーに36−58、最終的には大差をつけられたが、後半20分過ぎまでは社会人代表からリードを奪う戦いを見せたのだ。

 次こそ、学生だけで、勝てるチームを作ってくれ……田中はその思いを伝えて卒業した。

ラグビー環境が激変する中で。

 だが、ラグビーを取り巻く環境はこの時期、激しく変動していた。1995年に世界ラグビーの統括団体IRB(現ワールドラグビー)はアマチュア規定を撤廃。プロ化の波は選手だけでなく、コーチングの分野、情報を急激に進化させた。その波は日本の大学ラグビーにも及んだ。

 1997年度に明大を破った関東学院大は、その後ニュージーランドから招いたマレー・ヘンダーソン氏がコーチングスタッフに入ったことで、越えられなかったカベを飛び越えた。

 慶大ではオーストラリアでコーチングを学び、若き日のエディー・ジョーンズに師事した林雅人がヘッドコーチとしてラグビー先進国の分析、データ活用を持ち込み、慶大を1999年度の優勝に導いた。

 低迷していたライバル早大には2001年から清宮克幸監督が就任し、やはりエディー・ジョーンズがサントリーに持ち込んだコーチングエッセンスを学生に授け、黄金時代を築いた。

 そして帝京大は、岩出雅之監督のもと、豊富なフルタイムのコーチングスタッフが学生にきめ細かい指導を施していた。

負の文化を払拭した丹羽前監督。

 明大が著しく弱体化したわけではないだろう。ただ、他校(上位校)の急激な進化に取り残されたのは間違いなかった。監督空位の体制は3シーズンで終わり、2000年度からはOBが監督を務めた。だが、OB会と大学当局の意向は必ずしも一致せず、OB会も一枚岩ではなかった。

 そして、勝てない事実は選手のモラルを低下させ、「下級生から上級生に話しかけてはいけない」などの無意味な悪習だけが引き継がれるなど、チームには負の文化がこびりついていた。

 前監督の丹羽政彦は、2013年に着任した当時、寮の廊下に紫紺のジャージーが落ちていたことに衝撃を受けたという。私生活から立て直さないといけない――丹羽監督は寮に住み込んで部の再建に尽力した。

田中澄憲ヘッドから監督へ。

 2017年、丹羽監督5年目のシーズンに、田中澄憲がヘッドコーチとして明大グラウンドへ戻ってきた。丹羽監督は当時こう語っている。

「キヨノリはサントリーでたくさんのコーチングを見てきて知識も引き出しも豊富だし、ゼッタイに良い監督になると思った。ただ、実際にコーチの側に立ったことはなかった。それを本人も気にしていた。だから僕の最後の年に、ヘッドコーチという立場にして、グラウンド内のことは任せたんです。責任はオレが取るからと。そして、僕は寮生活や学生の生活指導、学校との交渉など裏方の仕事に専念しました」

 明大を卒業後にサントリーへ進んだ田中監督は、選手として土田雅人、清宮克幸、エディー・ジョーンズという名監督の薫陶を受け、引退後はチームディレクターなどのスタッフとしてエディー・ジョーンズ、同期である大久保直弥、沢木敬介のトップリーグ優勝を支え、採用担当として各大学を回った。

 帝京大が連覇を始めて間もない頃、田中の口から「このままだったら10連覇しますよ」という言葉を聞いた。フィジカルの強さだけではない、学生自身の成熟度、全部員が役割を持ち、目標を持ってチームにコミットしている姿に感銘を受けたというのだった。

 選手として、スタッフとして、勝利を掴むまでに経験したすべてのこと、その過程で蓄えた知識、見聞してその意味を考えたことすべてが、監督・田中澄憲の血肉を作った。

 2018年度、明大ラグビー部は史上初めて、前任者からの引き継ぎを伴う監督交代を実現した。そしてそのシーズン、明大ラグビー部は22年ぶりの大学日本一に輝いた。

 監督は「最後の優勝」である1996年度に3年生で、4年生のときに優勝を逃した田中澄憲。

 そして、主将の福田健太ら4年生は、奇しくも、最後の優勝の年に生まれた選手だった。

文=大友信彦

photograph by Nobuhiko Otomo


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