清原和博の返信、大切な戦友たちへ。忘れない13本のホームランとバット。

清原和博の返信、大切な戦友たちへ。忘れない13本のホームランとバット。

 覚醒剤取締法違反で有罪判決を受け、薬物依存症からの復帰を目指している元プロ野球選手・清原和博氏(51)が、かつて甲子園で戦ったライバルたちに感謝のメッセージを綴った。

 2016年2月に逮捕され、5月に有罪となった清原氏は都内の真っ暗な部屋に閉じこもっていた。

 その時、雑誌『Sports Graphic Number』にPL学園・清原が放った甲子園最多13本塁打を特集する記事が掲載され、その中で、かつて戦った投手たちが、清原から打たれたホームランが自分たちの人生にいかに大きな影響を及ぼしたかについて赤裸々に語っていた。

 どん底にいる自分に向けられた戦友たちのメッセージ。それを何度も何度も読んだ清原氏は、ひとり涙し、小さな一歩を踏み出すことができたという。

 彼らの証言をまとめた『清原和博への告白〜甲子園13本塁打の真実〜』は2016年12月に単行本化され、この7月には文庫化されることになった。

 そこで今、執行猶予明けまであと1年となった清原氏は、白球とバットのみでつながる戦友たちに、返信することを決意した。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 僕が皆さんのメッセージを目にしたのは、2016年の夏でした。

 その年の2月に覚醒剤で逮捕され、留置場で取り調べを受けて、保釈されたあとのことでした。

 まだ外に出ることすらできず、ずっと部屋にいた僕に知人が雑誌を届けてくれて、その中に皆さんの言葉がありました。ひとりそれを読んで、涙が止まりませんでした。

 あの頃、僕は自分が犯した罪の大きさを実感し、自分が野球で積み上げてきたものを全て失ってしまったのだと後悔し、誰に合わせる顔もなく閉じこもっていました。大袈裟と思われるかもしれませんが、皆さんの言葉はそんな僕に生きていく勇気を与えてくれるものでした。

 正直、僕は憎まれていると思っていました。甲子園で対戦して、僕がホームランを打ち、皆さんは敗北を味わったわけです。県を代表して、チームのエースとして背負っているものがある投手にとっては、晴れの舞台で打たれたホームランというのは後悔の念がずっと残るものだろうと考えていました。

 それなのに、皆さんが僕との対戦を今でも大切に思っていてくれるということに驚き、感動しました。

 なぜ、そう思ってもらえるのか、自分ではわかりません。ただ、皆さんと同じなのは、僕も甲子園で打ったホームランの1本、1本を大切に、はっきりと覚えているということです。

憧れの投手から放ったホームラン。

 1983年の夏、横浜商の三浦さんから甲子園で最初のホームランを打ちました。

 決勝戦で三浦さんと対戦する時、僕の心の中は憧れでいっぱいでした。岸和田で少年野球を始めたばかりの頃から甲子園を目指していて、まだPL学園に入学する前の春には池田高校とセンバツの決勝で対戦する三浦さんをテレビで見ていました。だから、実際に打席に立った時は、テレビの中にいるスーパースターを見るような感覚でした。

 あの決勝戦の前の日、準決勝で池田高校のエース・水野さんに4三振を食らっていたので、とにかくあの日は「悔いのないようにバットを振ろう」としか考えていませんでした。第1打席、追い込まれてから打ったあのボールの残像は今でも頭に残っています。ただ、球種がなんだったのかは全くわかりませんでした。フォークがすっぽ抜けたものだったというのは、三浦さんの言葉を読んで初めて知りました。

 あの時の僕のスイングでは、おそらくあのボール以外であればバットに当たっていなかっただろうと思います。三浦さんは大きなカーブを持っていましたし、他の球種であれば、ストレートでも、カーブでも、空振り三振だったでしょう。

 打球がライトへ飛んでいく光景も、「ホームランにはならないだろう」と思いながら一塁へ走った心境も、まるで昨日のことのように思い出せます。

投げ合ったことも、13本のホームランも。

 高校3年のセンバツで戦った浜松商のエース浜崎くんとは中学時代、全国大会の決勝で投げ合いました。岸和田シニアのエースで4番として初めて東京へ行って、神宮球場へ行って、小さな体からこれだけキレのある球を投げるピッチャーがいるのか、これだけ機動力を使う野球があるのか、と衝撃を受けたことを鮮明に思い出します。

 僕は本当に、高校1年生の夏に打った1本目から、3年生夏の決勝戦で宇部商の古谷くんから打った13本目までを、はっきりと覚えているんです。

 そして、最後の夏、決勝が終わったあとに宇部商の背番号「1」田上くんがずっと泣いていた姿も記憶に残っています。

 じつは、高校3年春のセンバツ2回戦で宇部商と戦ったとき、僕は田上くんに抑え込まれました。その大会、準決勝で伊野商の渡辺くんに3三振を奪われて敗れたことがクローズアップされましたが、渡辺くんに匹敵するくらいの衝撃を受けたのが、田上くんとの対戦でした。どんどんインコースにストレートを投げ込んできて、すべての打席でつまらされた覚えがあります。

「甲子園で会おうな」真っ向勝負の約束。

 そのあと、宇部商がPL学園まで練習試合にやってきて、僕はその時「甲子園で会おうな」と言いました。抑えられるにしても打つにしても、真っ向勝負で男と男の決着をつけたいと思っていましたから。

 山口県の予選から甲子園の決勝まで、彼がほぼひとりで投げ抜いてくる姿を、僕も気にして見ていました。だから田上くんの涙が印象に残っているのだと思います。

 本当に嬉しかったのは、皆さんがすべてをぶつけてきてくれたことです。どんな状況で対戦した投手であっても、たとえ1打席であっても、僕は真っ向勝負をしてきてくれた投手のことは決して忘れません。

手放せなかった1本のバット。

 今、僕の手元には1本のバットがあります。

 野球人生の中で、数限りなくバットを使ってきましたが、そのほとんどは他人に渡してしまいました。自分が持っているよりも、応援してくれる人や喜んでくれる人の手元にあった方が良いだろうと考えてきたからです。

 でも1985年、高校3年のあの夏の甲子園で使ったバットだけは手放してはいけないような気がしていました。それがたった1本、僕に残されたバットです。

 甲子園で打った13本と、プロ野球で打った525本、その価値を比べることはできません。ただ、高校野球で打ったホームランというのは、なぜか自分だけのものという感じがしないんです。

 16歳、17歳という多感な時期に、同じ夢を持った者たちが集まって、負けたら終わりの勝負を戦っていく。過酷な練習があって、大会前にはユニホームを着られる者が絞られるメンバー発表があって、厳しい県大会があって、その先に甲子園がある。

 そういうドラマをともにしたチーム全員の気持ちを背負って、同じような試練をくぐって甲子園にやってきたライバルの気持ちも受け止めて、ホームランを打つ。だから、自分のためのものではないと感じるのかもしれません。だから、僕は高校野球が好きなのだろうと思います。

甲子園のことだけは記憶から消えない。

 こうして、何気ないことまで思い返してみても、なぜ僕のホームランが皆さんに大切に思ってもらえるのか、理由はやはりわかりません。

 ただ、僕は今いろいろなことを忘れてしまっていて、それが覚醒剤の後遺症なのか、抗鬱剤のせいなのかもわからず、日々、憂鬱で頭がボーッとするような感覚に襲われることばかりなのですが、そんな中でも甲子園でのことだけは不思議と記憶から消えないんです。

 あなたたちが投げたボールの残像から、打球の行方まで、はっきりと思い出すことができるんです。それが何より僕の救いであり、だからあの日、涙が止まらなかったのだと思います。

 時間がかかってしまいましたが、大切な戦友たちへ、30年越しの感謝を込めて。

2019年初夏  清原和博

文=鈴木忠平

photograph by Hirofumi Kamaya


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