「普通の人でいたかったです」須田幸太はベイスターズに殉じた。【2019年上半期 野球部門2位】

「普通の人でいたかったです」須田幸太はベイスターズに殉じた。【2019年上半期 野球部門2位】

2019年上半期、NumberWebで人気を集めたベスト記事セレクションを発表します。
野球部門の第2位はこちら!(初公開日:2019年2月8日)  DeNAファン以外の人にとっては特別な選手ではなかったかもしれない……。昨秋、ひとりのピッチャーが横浜スタジアムから去った。“大魔神”でもなく、“番長”でもなかったが、チームとして大事な時期に活躍し、DeNAファンの記憶には必ず残っている投手でもあった。
 須田幸太、33歳――今夏の都市対抗野球で大活躍してチームを優勝に導き、最優秀選手賞である橋戸賞も受賞した。この記事は、忘れがたき“普通の人”の去り際の物語である。

 その人の顔がたびたび思い返されたのは、彼がさよならを言わずに去ってしまったせいだろうか。

 2018年10月3日、横浜DeNAベイスターズは、9人の選手に戦力外通告を行ったと発表した。プレスリリースに並んだ名前の先頭に、その人――須田幸太の名前はあった。

 11月13日に開催された12球団合同トライアウトに参加した須田を、獲得しようという球団は現れなかった。去就が明らかになるのはさらに1カ月後。須田自身が催したファンとの交流イベントで、プロ入り前に所属していた社会人チーム、JFE東日本に復帰することが本人の口から語られた。

 毎年、プロ野球の世界から離れる選手たちは数多い。8年間で16勝19敗37ホールド1セーブの記録を残した須田は、少なくとも数字の上ではスペシャルな存在ではない。だから彼のその後の人生がさほど大きな話題にならなかったとしても、それは当然のことなのかもしれなかった。

 ただ、筆者の心には釈然としない思いが募っていた。いくつかの「なぜ?」が、答えを得られぬまま宙に浮いていた。

 疑問の根底には、2016年の姿がある。

 この年の須田は、マウンドの上で跳ね、打者を圧する直球を投げた。やがて中継ぎの柱となり、勝ちパターンの一角を担った。チーム最多の62試合に登板して、プロ入り6年目にしてついに覚醒の時を迎えた感があった。

 だが2017年・2018年の須田は、ありていに言えば、よくなかった。両年の防御率は8.10(23試合)、7.59(10試合)だった。

「嵐が活動休止になって寂しいですね」

 なぜ調子は落ちたのか。

 なぜ2016年の状態に戻れなかったのか。

 たとえばあと1年待てば、戻ってこれる可能性はあったのか、なかったのか。

 どんな思いで戦力外の現実を受け止め、どんな思いでプロ野球の世界を後にしたのか。悔いはないのか。

 そして、古巣の社会人チームで野球を続ける道を選んだのはなぜか。

 確かめる機会もないまま問いは積み重なる一方だった。やがてどうにも放っておけなくなり、須田に会いに行こうと思い立った。

 JFE東日本の練習拠点「犬成野球場」は、千葉県市原市にある。2019年1月下旬の風の強い日、冬の薄日が射しこむ古びた応接スペースに須田は現れた。「JFE」の刺繍が入ったジャンパーを着ているほかは数カ月前と何も変わらない。座って向き合うなり「いやあ、嵐が活動休止になって寂しいですね」ととぼけてみせたのも須田らしかった。

 そこから始まった75分間のインタビューに、須田は終始丁寧に答えてくれた。

 疑問はほとんど解けた。ただその代わりに、胸にずしりと重い感覚が残ることになる――。

むっちゃ無責任なんですよ。

 まず「プロ野球でのキャリアを大きく2つに分けるなら」との問いに、須田は「2015年の6月までと、2015年の8月から」と明確に答えた。

 そのころ、与えられた役割が、先発から中継ぎへはっきりと変わった。安定感に欠け「先発失格の烙印を押された」すえの転向だったが、結果は吉と出た。

「どうしても先発の時は『何回まで投げなきゃいけない』という気持ちが先にあって。入りが悪くて、初回に打たれたり3回ぐらいに打たれたり、5回もたずに降板ということが多かった。中継ぎになってからは1イニング、フルで、全力で投げれば終わり。そっちのスタイルのほうが合ってました。というか、何回投げなきゃいけないという思考をなくした途端に、自分のピッチングができるようになったんです。変な話、いっきに責任感がなくなった」

 2015年9月5日のジャイアンツ戦では、最初で最後となるセーブを記録。痺れる場面を乗り切って、「プロで抑えはやりたくない」と身に染みて思った。全員でつないできた勝利のバトンを最後に受け取る役目が重すぎたのだ。

「むっちゃ無責任なんですよ、ぼく」

 32歳は奔放に言い、屈託なく笑った。

「究極の便利屋」を目指す!

 2016年、キャンプインを迎えた須田は不思議な感覚に包まれていた。これまでになく球が伸びる。オープン戦の時期に入り、打者との対戦を重ねて、自信は深まっていった。

 オフに相当走り込んだか、それともフォーム改造に着手したのか。あるいは中継ぎ転向によるメンタルの変化が球にも表れ始めたということか。考えられる要因を挙げてみたが、須田はそれらを一切払いのけた。

「(原因は)わからないんです。特別、トレーニングしたわけでもないし、フォームも変わってないし。それなのに突然変わった。『こんな球よかったっけ』『これだったら1年いけるじゃん』って」

 こうして始まったシーズンを思い返し、「何をやっても抑えてた感じ」と須田は言う。「究極の便利屋を目指す」と宣言した男はその誓いのとおり、僅差の試合中盤から後半、踏み荒らされたマウンドの上で輝いた。

 反省をするならば、「なぜできたのか」を突き詰めなかったことだ。答えが導き出せていれば、いつか良質の感覚を失った時、復調への手掛かりにはなるはずだった。しかし、好調の渦中にいながらにして不調の未来に備えることは難しかった。

 須田は夏場を迎えてもなお球の勢いを失わなかった。プロ入り後初めてチームに確固たる居場所ができ、心身ともにかつてなく充実していた。

 試練が訪れるのは、レギュラーシーズンも終幕に差し掛かった9月24日のジャイアンツ戦だった。

 ベイスターズは球団史上初のクライマックスシリーズ(CS)進出をすでに決め、2位のジャイアンツに肉迫していた。そんな状況下、5−5の同点で迎えた7回表に須田の名はコールされる。2アウト一塁で、打席には坂本勇人。フルカウントから投じた6球目はわずかにゾーンを外れた。

 須田が苦悶の表情を浮かべたのは、次打者の阿部慎之助に対し初球を投じた直後である。左脚を跳ね上げ、抱え、引きずりながらマウンドを降りた。一度天を仰いでからうなだれた。左太もも、正確には内側(ないそく)ハムストリングスの肉離れだった。

「無理です」と言えなかった自分の責任。

 キャリアハイを大幅に塗り替える、シーズン62試合目の登板。未知の領域へと踏み込んだがゆえの負傷だったのだろうか。

「いや。あれは自分の判断ミス」

 須田は淡々と振り返る。

「前の投球でもうおかしかった。坂本勇人に投げた最後の球でたぶん軽度の肉離れを起こしてたんです。そこでタイムをかけて『無理です』と言えなかったのが自分の責任だなって。阿部さんへの初球の前に、もう(肉離れ)やるなってわかってたので」

 9月下旬の故障は、例年ならシーズンの終わりを意味する。実際、高田繁GMや一軍投手コーチからは「また来年がんばってくれ」と言われていた。だが須田はあきらめなかった。

 10月8日にはCSファーストステージが始まり、勝ち抜けば12日からのファイナルステージが控えていた。

「モチベーションがそこしかなかった。痛いけど、やろうって。(肉離れの)3日後ぐらいには『調整はします。無理だったらあきらめます。でも、もし間に合うなら出させてください』と言いました。トレーナーが毎日ついてくれて、いろんな段階を飛ばして最短の復活ルートを探してもらって。チームが(ファーストステージで)勝つことが前提だけど、10月13、14日あたりに合わせよう、と。だからもう、巨人戦はマジで勝ってくれってずっと思ってましたね」

 1勝1敗で迎えたCSファーストステージ第3戦を、リハビリに勤しんでいた須田はラジオで聴いた。ベイスターズ1点リードの延長11回裏2アウト、山崎康晃が阿部に打たれた大飛球が右翼手、関根大気のグラブに収まった瞬間から、須田の復帰プログラムは加速する。

 宮崎に飛んでフェニックス・リーグでの実戦登板を挟む案もあったが、須田は「時間が足りない。ぶっつけ本番で行きます」と言って押し切り、結局シート打撃に一度登板しただけでファイナルステージの開催地である広島へと向かった。

本当は「全然治っていなかった」。

 ベイスターズはリーグ覇者のカープを相手に第1戦、第2戦を落としていた。アドバンテージも含めて0勝3敗。崖っぷちに立たされていた。

 須田が合流したのは10月14日、負ければ終わりの第3戦のタイミングだ。マツダスタジアムに姿を見せ、報道陣には「帰ってきたので100%ということ」とうそぶいた。

 本当のことを言えば「全然治っていなかった」。数日前にMRIで状態を確認したが、患部は肉離れを示す白い陰影で覆われたままだった。左太ももをテーピングでガチガチに固めて試合に備えた。そこまでしてでも「あの場で投げたかった」明白な理由があった。

「来年同じ活躍ができる保証もなかったし、(チームが)3位に入る確証もない。自己管理不足と言われてしまうかもしれないけど、もしかしたら一生に一度かもしれないCSで投げないなんて、野球人として許せなかったです」

 須田が入団したのは2011年だ。球団の経営権がDeNAに移る前の年であり、いまだ終わりの見えない暗黒期の中をプロとして歩みだした。だからこそ未来を楽観視することなどできなかった。12球団のしんがりでたどり着いたCSが唯一無二の機会に思えたのも無理からぬことだった。

大ピンチでの好リリーフ。

 第3戦は3−0とリードして終盤に入る。ブルペンが忙しくなるのは8回だ。

 三上朋也が2本のヒットを浴び、続いて送り込まれた田中健二朗は丸佳浩に粘られたすえ四球を与えた。2アウト満塁、打席には4番の新井貴浩。一発が出ればいっきに逆転というシチュエーションで、須田の出番はめぐってきた。

「『マジか』って感じでした(笑)。三上だったら、健二朗ならと思っていたらあれよあれよと……。フォアボール出したら行くぞとは言われていたのでそこでスイッチは入った。マウンドに立ったら気持ち入ってたんで、ケガも忘れて」

 真っ赤に染まったマツダスタジアムで須田は無心で右腕を振り、新井をライトファウルフライに打ち取る。左手薬指の骨折をおして出場していた梶谷隆幸がフェンス際に滑り込み、倒れ込みながら捕球し、それを見届けた須田がガッツポーズを繰り出した場面は、あのCSのハイライトだ。

 次戦で敗れベイスターズの2016年のシーズンは幕を閉じたが、須田は故障を乗り越え務めを果たせたことに安堵していた。2カ月のオフの間に、左脚の痛みも次第に薄れた。元通りの体で、去年以上の活躍を。新たなシーズンに向かう気持ちは軽かった。

自分を見失ってしまった2017年。

 ところが2017年のキャンプインを迎え、須田は一転して不安に苛まれる。何をやっても自分の納得いく球が投げられなかったのだ。

 調子が上がる気配はなかったが、前年の実績から不可欠な戦力と見なされていた須田は開幕一軍メンバーに名を連ねた。そして開幕カードのスワローズ3連戦で、厳しい現実を突きつけられることになる。

 7回のマウンドに立った開幕戦は、1アウト満塁のピンチを招いて降板。すべての走者が生還したため、防御率の欄にはいきなり「81.00」の数字が刻まれた。

 3戦目では同点の延長10回裏、1アウト満塁の場面を託された。その初球は鵜久森淳志にレフトスタンドまで運ばれた。サヨナラ満塁ホームランを浴びたショックに、神宮球場のロッカーで涙をこらえきれなかった。試合後、防御率は「108.00」にまで膨らんだ。

 4月28日のカープ戦で先発のウィーランドがつくったノーアウト満塁のピンチを無失点で切り抜けるなど、一時は持ち直したかに見えた。だが1年前のボールが甦ることはなく、5月20日、一軍選手登録を抹消された。

「持ち直しては……ないですね。そのまま(調子が上向かないまま)行って、そのまま抹消された感じです。2017年に関しては、自分の投球ができたなっていう試合は1試合もないです」

 須田には、なぜ自分の球が投げられなくなったのかがわからなかった。試行錯誤を重ねても、これだと思えるものに出合えなかった。霧の中をさまよい歩くような状況は、翌2018年も続いた。

引退か? 古巣での現役続行か?

 2018年9月のある日、須田は横浜スタジアムに呼び出された。球団からの戦力外通告だった。望むなら引退試合を行うと打診されたが、須田は固辞した。

「8月が終わりそうな段階でも上(一軍)に呼ばれなかったので、そういうことなんだろうと思ってはいました。だから(戦力外と)言われた時は『そうですか。わかりました』という感じ。引退試合は……別にやらなくていいかなって」

 現役続行か、引退かをめぐる須田の心理は微妙なものだった。

 戦力外と言われた時点で、プロにこだわり現役を続ける気持ちは薄かった。ずっと「自分のストレートが投げられなくなったら終わり」と思ってきた。ただ、ほかの球団から声がかかるならばそこに行くのが最善だとも考えていた。

 その一方で、早い段階から古巣のJFE東日本に復帰する意思が芽ばえていたのも事実だった。自分をドラフト1位で指名されるほどの選手に育ててくれた恩義があり、何よりこのJFE東日本というチームが好きだった。トーナメント制の、一発勝負の大会に懸ける社会人野球の楽しさも胸にはずっと残っていた。

 プロ入り後もシーズンオフの自主トレでは犬成野球場を使い、所属時の主将で2017年から監督を務める落合成紀には「クビになったら獲ってくださいね」とよく冗談を言っていた。実際に戦力外通告を受けてから連絡すると、獲得に前向きな返事をしてくれた。

 トライアウト受験後、NPB球団からの連絡はなく、条件面でも折り合いがついたことから、須田はJFE東日本への復帰を決めたのだった。

2年も分からなかった原因が……。

 重要な気づきを得るのは、ベイスターズを離れ、犬成野球場での練習を開始したころのことである。

 投球練習を見ていた落合やコーチの井上祐二らに、左足の踏み込みの甘さを指摘されたのだ。

「『いい時の踏み込みがないよね。下から伸びてくるような球が本来もっとあったよね』って言われて、初めて気づいたんです。いや、自分でも気づいていたというか、気づいていなかったというか……。調子が悪い日は『踏み込めてないのかな』と思うことはあったけど、普段は『踏み込めてるじゃん』と思ってて。誰かに言われることもなかった」

 踏み込みの強さがいつしか失われたのはなぜか?

 過去に遡って原因を探れば2016年の秋に行き着く。自分では治ったものと思い込んでいた肉離れは、まるで亡霊のように左太ももの裏側に居座っていたのだ。須田はその箇所をさすりながら言う。

「こないだMRIを撮ったら、いまでもしこりがあるって言われて。どれだけ鍛えても、またケガしたくないって体が勝手に思って、踏み込めなくなっちゃってたんです。それで自分本来の球が出せなくなった。イップスみたいなものですよね」

 この2年間ずっとわからなかった不振の原因に、戦力外通告を受けてから気づかされた。現実は残酷だった。

悔いや未練は「まったくない」。

 それにしてもあの時、坂本への最後の一球でやめておけば――こちらの言葉を遮るようにして須田は言った。

「あそこでやめられるピッチャーなんていないと思うんですよ。2アウト一塁、このバッターを抑えたら終わりってところでツースリーになって。最後の球がボールになってフォアボール出して。そこで『いや、無理です』とは言えない」

 異変を感じていながら自らマウンドを降りることを拒み、おそらくは避けられた傷を負った。ようやく訪れた大舞台に立たせてくれと、めったに言わないわがままを通し、送り出された土壇場で痛みを忘れて投げた。その一瞬の判断、「むっちゃ無責任」とは言いながら捨て置けるはずのなかった投手としての責任感、野球人としての意地が、須田幸太のプロとしての選手生命を短くさせた。

 仮にそうだったとしても、須田は8年間のプロ野球生活に悔いや未練は「まったくない」と断言する。

「むしろ1年間ちゃんとできた年があったことに満足しています。プロ野球選手にこんなこと言ったら非難されるでしょうけど、終わった身としては『よく1年間できたな』って。爪痕をちゃんと残せてよかった」

 たとえば10年後、ファンの間で「須田ってやつがいたよな」と話題に上ることはあるだろう。「2016年、ベイスターズが初めてCSに出た時にがんばってたよな」と。

 それだけで十分なのだと須田は言った。

大野くんの気持ち、わかります。

 聞くべきことはあらかた聞き終えて、少し肩の力を抜いて雑談みたいに話をしていた時だった。須田はふと、こんなことを言い出した。

「野球のユニフォームを着てなかったら、マジで一般人ですよ。思考的にも一般人。プロって感じではなかったですね」

 反射的に質問を投げかけていた。

 そんな一般人がプロの世界で生きていくのは大変でしたか?

 須田は短く答えた。

「普通の人でいたかったです」

 瞬間、筆者は思わず笑ってしまった。インタビュー直前、2020年限りで活動を休止することを発表した嵐のリーダー、大野智が会見で発したセリフによく似ていたからだ。「大野くんみたい」。筆者の言葉に須田はうなずいた。

「ほんと大野くんの気持ちはわかります。普通の人でいたかった。でもプロ野球選手だからやらなきゃいけない。仕事は仕事って感じでした」

 そこまで聞いた時、なぜか胸が苦しくなり始めた。

須田はベイスターズに殉じた――。

 須田が「普通の人でいたかった」と言ったのは、主にファンとの関係性のことを指していた。プロ野球選手は常に特別扱いされる。ファンと同じ目線で、友だちのように交流することができないことに息苦しさを感じていたのだという。自分なんてただの「普通の人」なのに、という思いがあった。

 身長は176cmで、筆者とほとんど変わらない。街の雑踏に、どこかの職場に、すんなり馴染んでしまうであろう風貌。いま目の前にいる須田幸太は、たしかに「普通の人」だ。

 ただ、彼をプロ野球選手たらしめてきたものも視界には映り込んでいる。練習着のズボンの内に張り詰めた、まさしく丸太のような両の太もも。この太ももの力で土を蹴り、めいっぱい踏み込んだからこそ、「普通の人」は普通でないボールを投げられた。彼がプロ野球選手として生き続けようと思えば、それは絶対に守られなければならないものだった。

 だが須田は、2016年の秋、最初で最後かもしれなかったCSを戦った秋、太ももの一本を犠牲にした。

 カッコつけた言い方をすれば、プロ野球選手・須田幸太はベイスターズに殉じた――。

登場曲は、嵐の『GUTS!』。

 胸に苦しさを覚えたのは、そんな事の成り行きがあらためて脳裏を駆け巡ったからだ。鉛を飲み込んだような重さを腹に感じずにはいられなかった。

 沈みかけた筆者の気持ちを見透かしたかのように、須田は明るく言った。

「でも、ベイスターズひと筋でよかったなって思ってます」

 現役時代、登場曲に嵐の『GUTS!』を使っていた。明るい曲調のイントロが流れ始めただけで、横浜スタジアムは沸いた。あの時間、ともに戦う仲間として、立場の違いを越えて自分とファンが1つになれた気がした。

「ぼくががんばったからといって、ぼくが盛り上げてくださいと言ったからといって、盛り上がるわけじゃないんです。ファンの方がいたからこそ、ああやって自然と球場が盛り上がるようになった。だからファンの方たちには本当に感謝しています。

 いまは、踏み込みを取り戻す練習をずっとやっています。できるところまで野球をやるつもり。嵐が2年がんばるので、ぼくもあと2年は必ずがんばりますよ」

160kmは投げられないけど……。

 プロ野球には、2種類の選手がいると思う。

 1つは、たとえば大谷翔平のような、圧倒的な体躯を誇る者たちだ。

 もう1つは、たとえばここにいる須田のような「普通の人+α」の者たちだ。

 巨躯に筋肉の鎧をまとい、160km超のストレートを投げるような人間に、ぼくはどう転んだってなれないと思う。でも、ちょっとしたきっかけさえあれば、ぼくは須田になれる可能性はあったのではないかと夢想する。

 そんなことを言われて怒っても不思議ではないのに、須田は怒るどころか笑みを浮かべてこう言うのだ。

「そうそう。おれでもいけるじゃんって思いますよね」

 はっきりと意識はしていなくても、ずっと、親近感を覚えていたのだと思う。だから突然いなくなってしまった須田の本当の思いを聞かずにはいられなくなったのだと思う。

 会いに来てよかった。本音を聞けた。

 須田と初めて普通の人どうしの会話ができたような気がして、うれしかった。

文=日比野恭三

photograph by Kyodo News


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