「ついで」の存在からドラフト指名。父の死、難病も乗り越えた望月大希。

「ついで」の存在からドラフト指名。父の死、難病も乗り越えた望月大希。

「自分は、ついで、ですから……」

 北海道日本ハムからドラフト5位で指名を受けた創価大の望月大希は、部内での自分の立ち位置をそう言って謙遜していた。

 遊学館高時代に甲子園にも出場し当時からドラフト候補として注目された小孫竜二や、最速154kmで大学2年時からドラフト候補として注目された杉山晃基(ヤクルト3位指名)。この2人を見る「ついで」に自分も、人の目に留まったのではないのかと分析するのだ。

 彼がそこまで自身を謙遜するには理由がある。

 ここまでの望月の大学生活は、けっして順風と言えるものではなかった。

発覚を恐れ、検査を後回しに。

 創価大野球部では毎年、年が明けると全部員が健康診断を受けることになっているのだが、望月は大学1年の冬、蛋白尿と血尿が見つかって、医者から運動量をしばらく抑えるようにと宣告された。とはいえ、普段見る尿の色は特に人と違う様子もない。体にも異常がない。

「疲れが溜まりやすいと感じることもなく、ただ検査で測ったらその数値が出たっていうだけで異常は特に感じなかったです」と、最初は自分の身に何が起きているのかさえ分からなかった。

「原因も分からなかったので、医者からは練習もやり過ぎちゃいけないと言われましたし、腎不全の恐れもあるので、そのままやり続けると危ない、人工透析とかになってしまうからとも言われました」

 練習ではランニングの量も抑え、全てのメニューを最低限こなすという日々が続いた。だから2年春までは全くと言っていいほど実績を残せなかった。

 2年春のリーグ戦、望月はそれ以上の何かが発覚するのを恐れて、医師の勧めも無視し、大きな病院での精密検査を後回しにした。

「リーグ戦と重なっていたのもあったので、医者も押し切って、リーグ戦が終ってから検査しますと言い続けました。終わって検査をしてみたら、原因はすぐに分かりましたけどね」

 医者の結論は「IgA腎症」というあまり聞き覚えがない難病。原因も扁桃腺にあることがすぐに判明し、扁桃腺を摘出する手術を受けた。

末期の腎不全になる可能性も。

「扁桃腺が結構大きくなっていたらしくて、手術では結構血も出ました。術後も最初は流動食をずっと食べていたんですが痛くて、飲み物も飲めなくて、唾を吐くとかさぶたが剥がれてまた血が出てきたりもしました。1週間くらいはご飯も食べられない状態が続きましたね」

 IgA腎症は診断時の腎機能や症状により予後が異なってくる病気である。

 成人発症では10年間の内に透析や移植が必要な末期の腎不全になる確率が15〜20%、20年間では約40%まで膨れるとされている。術後の経過観察もかなり慎重に行われた。

「(杉山と小孫の)2人がずっと先発をやっている中で、自分はどうしても体のことがあった。監督やコーチとも話して、最初はイニング数も決めてという感じだったので、『なんで自分だけが……』『別に体に異常はないのにな……』とは思っていましたね。でも、そこは自分のことだけでなく、チーム全体のことも考えました。悔しい思いは確かにありましたが、自分にできる役割をこなすことを考えていました」

 早期発見だったことも幸いして、その年の秋を迎えると望月の症状はみるみるうちに良くなった。

「ようやく間に合った」秋のピッチング。

 そんな望月にとって、ひとつの転機になったのが2017年の関東地区大学野球選手権決勝である。日体大相手に先発の杉山が序盤から相手打線に捕まって4失点。3回途中から望月がマウンドに上がった。

 すると、ストレートとカーブを中心にした持ち前の打たせて取るピッチングで相手打線を翻弄。7回の2死満塁のピンチもなんとか凌ぎきり、終わってみると5回1/3、打者23人を3安打に抑えて1失点。岸雅司監督を安堵させた。

 試合後、岸監督はこう言って望月の健闘を称えた。

「大きな収穫です。いつも抑えで1イニングか2イニングしか投げられなかった子が今日は5回1/3を投げた。初めてそんなに投げさせたので不安もありましたが、良かったと思います。彼は血尿が出たり、蛋白尿が出たりして、ずっと検査で過ごしてきたシーズンでしたが、原因が分かって、治療すれば大丈夫だと医者からもお墨付きをもらったんです。それでようやくこの秋に間に合った。やっぱり上に行くためには2人(杉山と小孫)だけでは厳しいので、望月が出てきたのは大きい。彼も自信になったんじゃないか」

 望月も当時を振り返りながらこう言う。

「2年秋の関東大会(横浜市長杯)あたりで短いイニングで投げさせてもらって、感覚もよかった。それから(明治)神宮大会に行って最速も更新できた。そこで『自分もやれるんだ』と思えたのがきっかけだったと思います」

防御率0.76、リーグ2位に返り咲き。

 以後は経過を観察しつつ、少しずつイニングと実績を伸ばしてきた。

 2年秋のリーグ戦では3試合3回2/3というわずかな登板機会しか与えられなかったが、3年春には6試合28回1/3でリーグの規定投球回数をクリア。防御率も1.27を記録し、リーグ2位の成績をあげた。3年夏のオープン戦の不振とチーム事情で、秋のリーグ戦はリリーフに回り3試合7回を投げるのみで終わったが、4年春のリーグ戦では35回1/3を投げて自責点はわずか3。防御率0.76の成績で再びリーグ2位に返り咲いた。

 今年6月の全日本大学選手権でも、角度があって伸びもある140km台中盤のストレートと落差ある縦割れのカーブを武器に、前年度優勝の東北福祉大を8回2安打1失点に抑える好投を見せた。

侍ジャパン大学代表で得た刺激。

 試合こそ敗れはしたがその内容は高く評価され、同月21日から3日間に渡って行われた侍ジャパンJAPAN大学代表の選考合宿にもチームから唯一選出された。

「合宿は3日間だったんですけど収穫どころじゃなかったですよ。自分よりいい投手がたくさんいて、そこに混ぜてもらって、バッターも全国からいい選手が集まっていて、そこで投げることができた。いいボールが投げられて、あまり捕らえられなかったことで、このレベルでも通用するなと自信にはなった。あの経験があったからこの秋も投げて、投球術というか、相手を(上から目線で)見ることも大事だなって感じるようになった。そこは大きいと思います」

父の死、母への感謝。

 そして迎えた10月17日のプロ野球ドラフト会議。念願の指名を受けた。

「(なかなか指名されなくて)半分くらい諦めかけましたけど、北海道日本ハムファイターズさんが自分の名前を呼んでくれたときには家族全員で喜び合いました。本当に一安心しています」

 10歳(小学4年生)のときに父を病気で亡くした。それからは母が女手一つで望月を含めた子供3人(兄・姉・自分)を養ってくれた。だからこれから親孝行をしたいと考えている。

「お母さんには本当に兄弟3人の面倒を見てもらって、ここからだというときに自分も病気になってしまった。そのときも家族が野球をやらせてくれたので、簡単に離脱するわけにはいかなかった。早く治してという感じでそのとき母も全力でサポートしてくれて、本当に感謝しかないです」

 父の死を乗り越え、難病を乗り越え、飛び込んでいくプロの世界。

 もう誰も「ついで」だなんて思いやしない。

 望月大希は、家族とチームを支える一本の大黒柱へ成長して次の舞台に乗り込む。

文=永田遼太郎

photograph by Ryotaro Nagata


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