10年目の戦力外に「おめでとう」。広島・庄司隼人からの電話と記憶。

10年目の戦力外に「おめでとう」。広島・庄司隼人からの電話と記憶。

 その男から電話がかかってきたのは、朝の9時をまわったところだった。

「ご無沙汰しております。庄司です」

 携帯電話の画面に出たのが、「電話番号」だけだったので、どちらの庄司さんなのか、パッとはわからなかった。

「あ、カープの庄司です。しばらくです」

 広島東洋カープ・内野手・庄司隼人。

 2009年・夏の甲子園に母校・常葉橘高を初出場させて、旭川大高を相手に6安打完封。さらに、明豊高(大分)・今宮健太(現・ソフトバンク)とも互角の投げ合いを演じて、その秋のドラフト4位で広島に入団。

 プロでは内野手に専念し、今年でプロ生活10年目にさしかかっていた。

「安倍さん、きのう、残念ながら戦力外になりました」

 彼のことは、高校時代にその全力投球を受け、話を聞いて野球雑誌の記事にして、それ以来ずっと気にかけていた。

 カープの日南キャンプに行けば、二軍の東光寺球場にまわって、必ず様子を見にいった。

 練習中だから、交わす言葉もわずかな立ち話だけだったが、お互い、うれしい「再会」には違いなかった。

「10年目にして、初の一軍キャンプですよー!」

 いつのキャンプのことだったか、私の「流しのブルペンキャッチャー」を知っていてくださるコーチの方がいて、

「庄司、お前、安倍さんに受けてもらったのか! わるい! そんなすごい選手だと思ってなかったわ!」

 冗談半分に、声をかけられた時の彼の笑顔が忘れられない。

 しかし、それよりも、今年の日南キャンプだ。

「10年目にして、初の一軍キャンプですよー!」

 会うなり、そう叫んだ彼の笑顔は、その時以上の会心の輝きだった。

 広島東洋カープ内野手・庄司隼人が立っていたのは、「天福球場」のほうだった。

 菊池涼介や田中広輔と同じ“地面”でノックボールを追いかける「背番号52」が、誇らしげに見えた。

開幕の一軍に庄司の名前はなく……。

「ほんと、そうだったんです。10年目で初めてのオープン戦帯同もあったんですけど……」

 内野陣には、ドラフト1位で小園海斗(報徳学園)が入ってきていた。

 ほかにも、ムードメーカー・上本崇司、2017年のレギュラー・安部友裕……スーパーサブ同士の競争もあった。

 しかし開幕一軍のメンバーに「庄司隼人」の名前はなく、そのまま、一軍の出場機会がないままに、最後の1年を終えていた。

 静岡・常葉橘高時代は、マウンドに上がれば140キロ台を続け、バットを握ればセンター前ならいつでもOK。投げない日はショートを守って、本職のショートより鮮やかなフィールディングを披露してみせる抜群の「野球上手」。

 中学時代は、もっとすごいスーパープレーヤーだったらしく、「中学軟式」では全国制覇のエースで4番だった。

取材者に質問を浴びせる知識欲。

 会ってみて、それ以上に驚いたのは、彼の野球に対する「博識さ」だった。

 ピッチングを受けた後の「取材」は、2時間以上にも及んだ。

 雑誌の取材なのに、むしろ彼からの質問のほうが多くて、そんな取材は、あとにも先にも、「常葉橘の庄司隼人」しかいない。とにかく、聞きたがりの知りたがりだった。

「プロの選手って、どんなもの食べてるんですか?」

「ドラフト1位候補って、自分なんかとどこが違うんですか?」

 そんな、「プロ野球」につながる質問ばかりだったのを覚えている。

 最後の甲子園を間近にしたタイミングの取材だったのに、「甲子園ネタ」はほとんどなかった。

「チームの大黒柱の自分がプロを目指してレベルアップできれば、チームも自然と『甲子園』に近づくわけですから!」

 決然とした“言いぶん”には、反撃の余地もない説得力があった。

「やみくもに野球に向かっていく高校球児ばかりが称賛される中で、頭でも野球のできるこういうヤツが、高校球界にもっといてもよい」

 確か、記事の締めのあたりで、そんなようなことを書いたのを覚えている。その考えは、今も、私の中で変わっていない。

「こいつと野球の話してると朝になる」

 すっかり日が暮れたグラウンドのネット裏。

 いつまでも話し込んでいる「野球バカふたり」。

 もうそろそろ……と呼びに来てくださった黒澤学監督(当時、現・常葉大菊川高野球部長)が、「こいつと野球の話してると、あしたの朝までかかりますから」と笑っていた。

「野球センス、勝負根性、練習熱心、研究熱心……そのあたりはまったく心配してません。プロでやるとすると、体も大きくないし(当時で175cm68kg)野手だと思うんですが、野手にしては、そこまで足が速くないんですよ」

 50mで6秒3、4っていうところかなぁ……。

 結果的に、その時の黒沢監督の“心配”が当たった格好になった。

 広島に入団してからも、器用にひと通りのことができるから、ファームの「2番セカンド」がちょうどいい選手になった。

 間違いなく、誰がみても「いい選手」なのだが、プロで「いい選手」はファームを意味する。

 一軍に居場所を作れるのは、人が見てひと目でビックリするような「すごいもの」を持った選手なのだ。

ひとしきり説明して、声が詰まった。

 それでも、見るたびに、いつも頑張っていた。ファームにいても、若い選手よりずっと頑張っていた。

 正直、5年目を越えたあたりから、キャンプで会えるのも今年が最後かもな……と思いながら、それでも、薄暗くなっても最後までバットを振っている姿を見ていると、いつかは報われるんじゃないか。野球の神さまだって、そこまで冷酷じゃないだろう。そんな気がしたものだった。

「頑張れるだけ、頑張ったんですが……」

 言いわけがましいことは一切話さず、毅然と状況を説明してくれて、ここまで来て、声が詰まった。

「プロで10年やって、それでクビだったら、そりゃあ、お祝いだよ! おめでとーだよ!」

 こっちも、そこまで言うのがやっとだったが、言ってから思った。

 やってやって、やり尽くして、それで手が届かなかったのなら、それは間違いなく全うしたことになろう。

 ならば、立派な「お祝い」じゃないか。

10年間の生存率は38%。

 プロに入って、ひと区切り10年を勤め上げた選手は、いったいどれぐらいいるのか?

 試しに、庄司隼人と同じ年のドラフトで、今も残っている選手、つまり10年働いた選手がどれぐらいいるのか?

 調べてみたら、「生存率」わずか38%。

 2010年、プロに入った1年目には、東出輝裕−梵英心の二遊間がまだ元気な頃。そこに、2年経ったら菊池涼介が入ってきて、さらに2年経ったら今度は田中広輔が入ってきて、“先代”よりさらに鉄壁の二遊間を形成してしまった。

 Bクラスが続いて低迷していた時期のカープに入団し、年を経るごとに徐々に強くなって、セ・リーグ3連覇も味わった。

 すいも甘いもかみわけて、激動の過渡期のカープで10年。

 その10年で一軍はどれくらい? と思えば、わずか22試合。いや、プロ野球の経験もない者が、わずか……なんて言い方は失礼だ。

 あまり大きくならなかった体で、それでも懸命な努力に励み続けた10年間に、乾杯!

 10年間に22試合。そんな選手に、球団が支配下枠を1つ与え続けた意味を誇りにしよう。

間違いなく野球の世界で輝く男だ。

 かりに「選手」ではなくても、間違いなく野球の世界でこそ役に立てる男だ。勝手なことを言わせてもらえば、たとえば、スタンドでじかに話ができるスカウトという職分で庄司隼人の「野球」が存続できるのなら、いちばんうれしいのだが……。

 小さな体に、野球のエネルギーをパンパンに充満させた「野球小僧」が1人、現役のユニフォームを脱いだ。

 一軍22試合の10年間。庄司隼人のプロ野球生活の1日1日に、「おめでとう!」の賛辞を捧げたい。

文=安倍昌彦

photograph by Kyodo News


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