「いいか、竜青。賢次さんのことをよく見て、ついていけばいいんだ」

 これは、2010年から18年まで川崎ブレイブサンダースでプレーした栗原貴宏の言葉である(現所属は宇都宮ブレックス)。

「竜青」とは川崎の現キャプテンの篠山竜青のことであり、「賢次さん」とは2002年から11年まで選手としてチームに在籍し、11年から今年6月まではアシスタントコーチを務め、今年7月からヘッドコーチとなった佐藤賢次のことだ。

「どの選手をお手本とすれば良いのでしょう?」

 栗原の日本大学時代の1年後輩である篠山が、チームに加入するにあたってそうたずねた。そこで栗原が挙げたのが、まだ現役だった佐藤の名前だった。

東日本大震災後に引退。

 もっとも、篠山が選手としての佐藤をお手本にすることはかなわなかった。

 2011年、3月11日に東日本大震災が起こったからだ。

 当時のJBLはレギュラーシーズン42試合のうち6試合を残して、中止に追い込まれた。まだ日本のバスケットボールがファンのためのものではない時代ゆえの、決定だった。

 そして、このシーズンをもって佐藤はひっそりとユニフォームを脱ぐことになった。

 そもそも、シーズンが打ち切られた時点で、佐藤には引退するつもりはなかった。しかも、あのシーズンの佐藤は、東芝に入って9シーズン目にして初めてレギュラーポジションをつかみ、プレータイムも過去最長を記録していた。

 だから、あの引退は佐藤にとって不本意極まりないものだったのではないかと一部のファンは考えているようなのだが……。

「悲しいという感じではないんですよ」

 引退の経緯について振り返るとき、佐藤はさわやかにそう語る。

「奈良のマイケル・ジョーダン」と呼ばれた。

 ただ、引退する前の最後のシーズンに主力として過ごせた意味については、力をこめて、こう話す。

「本当に、良い経験でした。あの1年の経験がなければ、今の自分も変わっていたんだろうな、と思いますから」

 佐藤はポイントガード(PG)の選手ながら、奈良県にある大瀬中学時代には「奈良のマイケル・ジョーダン」と呼ばれ、日本一を経験。洛南高校時代は一つ下の学年の田臥勇太率いる能代工業がいたものの、全国で2位まではたどり着いた。

そして、青山学院大4年生の時に日本一になり、リーグ戦でもMVPをとった。その活躍が認められ、当時の東芝の一員となった。

 2002年に加入した当初は、日本代表としても活躍した節政貴弘というクラブ史に残るPGがいた。それゆえに先発する機会は基本的にはなかったが、歳を重ねるごとに出場する試合数やコートに立つ時間を少しずつ伸ばしていった。

プレー時間が極端に落ち込んだ。

 ところが、プロ6年目となる2007-'08シーズンには出場試合数が2試合、平均プレータイムも3分台にまで落ち込んでしまう。

 このシーズンから菊地祥平(現アルバルク東京)と石崎巧(現琉球ゴールデンキングス)という2人の大型ルーキーが入ってきたからだ。

 彼らの当時の実力を見ると、彼らを中心に長期的な視点でチームを強化していこうと首脳陣が判断するのも不思議ではなかった。石崎は、佐藤と同じPGの選手だった。

 その結果、プレー時間が極端に落ち込んだ。その後の2シーズンは、節政が引退したこともあり、少しは出場時間が伸びたものの、このタイミングでキャプテンを任されるようになった佐藤の意識は異なる方に向くようになった。

「コーチなどと話すなかで、石崎や菊地を次の東芝の核にしたいという組織としての考えも知りました。当時の僕の変なこだわりかもしれないですけど、キャプテンとして自己犠牲を……つまり、試合に出られなくても我慢して、組織としての目標を達成できるように頑張ることが一つのモチベーションでした」

「あの時期はキツかったですね」

 当時をそう振り返る佐藤はしかし、選手たちを束ねるリーダーとして、歯がゆさを覚えることも多かった。

「そもそも、チームとしての成績が伴わなかったですし、みんなが勝ちたいと考えているにもかかわらず、思うようにまとまらず、バラバラだったり……。練習だけは手を抜かないようにと心がけていたので身体もきつかった。でも、自分は試合には絡めなくて、チームの結果も出ない。あの時期はキツかったですね」

 しかし、2009-'10シーズンの後に、転機が訪れる。

 期待をかけられていた石崎がドイツのチームへの移籍を目指して、東芝を去ることになったからだ。石崎に対する恨みなどは一切なかった。

 ただ、石崎が菊地と並んで大成するためにどうすれば良いのかを第一に考え、自らを犠牲にしようとしていた姿勢を変えなければ、その先はモチベーションが保てないと感じるようになった。

チームが勝つためのプレーに集中。

「だから、キャプテンは宮永(雄太)に託し、当時のヘッドコーチにも『チームが勝つためのプレーに集中したい』と伝えました。そこで選手として集中してシーズンを送ることができて、すごく楽しかったんですよね」

 それまでPGの1番手だった石崎がいなくなった影響もあったにせよ、一時は3分ほどしかなかった1試合あたりの出場時間も18分近くにまで伸びて、震災でリーグ戦が終わる前の全ての試合でコートに立った。

 確かに、シーズンの終盤には疲労などから身体のあちこちで痛みも出ていた。だが、レギュラーとしてコートに立つからこそ味わえる痛みや疲労すらも、佐藤には嬉しかった。

 日本のトップカテゴリーの舞台でレギュラーとして試合に出続けることでしか感じられないものがあると確信し、選手としてさらに成長できる予感もあった。

「アシスタントコーチとして俺を支えて欲しい」

 しかし、予定よりも早く訪れたシーズンオフのこと。家族と買い物に出ていたときに携帯電話がなった。北卓也からだった。

「現役を引退して、アシスタントコーチとして俺を支えて欲しい」

 当時のヘッドコーチだった田中輝明が退くことが決まり、それまでアシスタントコーチだった北がヘッドへ。それにともない、新たなアシスタントとして佐藤に白羽の矢が立てられたわけだ。

 選手として充実したシーズンを過ごした直後だけに、驚きと葛藤がなかったといえば嘘になる。しかし、電話をもらってから3日ほどで、大役を引き受けると佐藤は答えた。

全ての選手が社員として社業に。

 そこには、いくつかの理由があった。

 まず、当時の東芝のルールがあった。

 当時のJBLには企業のバスケットボール部的なチームが多数あったが、それらの企業でもバスケットボールだけをするための契約が一般的になりつつあった。

 一方、東芝は全ての選手に、社員として、社業に取り組むことを求めた。多くのサラリーマンがよほどの事情がない限り異動の指令を断れない(あるいは断らない)のと似たような感覚が、佐藤にはあった。

 また、引退を望んでいなかった北が、現役続行の可能性について何度も会社と交渉を続けたすえ、最終的に首脳陣の要望を受けいれる形で現役を退くまでのプロセスも佐藤は知っていた。

 北は2008年に引退しているが、そのときにアシスタントコーチだった田中がヘッドコーチへ昇格するのにあわせて、選手を退いてアシスタントになっていた。佐藤と同じパターンだったのだ。

「北さんも、あと2〜3年は選手を続けたかったでしょうし、あれだけの選手だったからまだまだ活躍できたはず。そんな北さんがチームのために大きな決断をしたのに、僕が断るわけには……という考えもあったかもしれないです」

いつかは指導者になりたいという想い。

 さらに、自身の将来への期待も感じていた。実際に、佐藤を誘った北はこう証言している。

「当時はみんなが社員で、コーチをよそから呼んでくる選択肢はなくて。僕が現役のときから様々な選手を見てきたなかで、最もふさわしいのが賢次だと考えていました」

 さらに、小学校から中学、高校、大学、そして東芝と、すべてのカテゴリーでキャプテンを経験してきた佐藤には、いつかは指導者になりたいという想いもあった。

「何となくではあるのですが、自分のことを将来のコーチとして期待してくれるのは感じていましたし、そういう話をもらったときに素直に嬉しかった部分もありました。

 そして、自分がコーチをやりたかったという想いもあった。『現役をもう少し続けたい』と揺れ動いてはいましたけど、そこまでのプロセスを考えると、もう、あまり悩むことはなかったですね」

 打診を受けてから返事を伝えるのに3日間はかけたものの、答えは初めから決まっていたのかもしれない――。

最後の1年の大きな意味。

 あのとき現役を引退した理由を、たった1つにしぼることは佐藤にはできない。それでも、指導者になったいま、現役としての最後の1年に大きな意味があったことは胸を張って断言できる。

「チームのつなぎ役のような控えの選手として現役生活を終えるのと、たとえ1シーズンであっても、長い時間試合に出て、1つひとつのプレーが勝敗にかかわる責任を背負いながらプレーした経験があるのとでは、全然違うと思います」

 もちろん、あの1年間の意味は、周囲にも伝わっていた。新人としてチームに加わろうとした篠山に対して、佐藤の存在を栗原が挙げたのもそれゆえだ。

「人として尊敬できるから」

 栗原は言う。

「僕が一緒にプレーしたのが賢次さんの9年目のシーズンとかですよね? 大学までずっと試合に出て活躍してきたような人が、僕が入る前のシーズンまでは控えに回っていた。その間に不満を抱えたり、腐ってしまう選手はたくさんいると思います。

 でも、賢次さんはそうではなくて。試合に出ていなかった時期にコンディションを維持するために色々と考えてやっていたことを聞く機会もありました。

 竜青と同じPGだったということもありますけど、人として尊敬できるから、お手本にするべきだと思って、そう伝えたんです」

 栗原の言葉に耳を傾けた篠山が、佐藤と一緒にコートに立つ機会はなかった。それでも、東芝に入ってから3年ほどは、他のPGの選手たちと、PG出身の佐藤とともに定期的にミーティングを行なって色々なことを吸収していった。

 今ではキャプテンとなった篠山はこう語る。

「当時はヘッドコーチだった北さんからも、PGとして大切なことは賢次さんから学ぶように言われていました。歴史あるこのチームのPGとはどういうものかについて、1から教えてもらってきましたから。本当に感謝しています」

 佐藤が新たにヘッドコーチに就任した今シーズン、7試合目の千葉ジェッツとの試合では、前半で21点差をつけられながらひっくり返した。

 その試合では控えのPGとして青木保憲らの健闘があった。ベンチからその活躍を見ていた篠山は「本当に鳥肌が立っていた」と試合後に語っていたが、当の青木はこう証言している。

「賢次さんもPGをやられていたし、節政さんのような方がいる傍らで控えとして長くやってきた経験もあるので、そういうときの心構えなどを僕にも還元してくれている部分が大きいです」

PDCAサイクルを回しながら考える。

 ヘッドコーチという立場になった佐藤は、自らのルーツをこう分析する。

「ずっとキャプテンをやってきた経験ももちろんあるのですが、ヘッドコーチをやるにあたって最も影響を受けているのは、実は、社員時代のことだと思っているんです」

 前述のとおり、バスケットボール選手であっても、全員が社業に取り組まないといけないのが東芝のカルチャーだった。

 川崎市の小向工場にある生産技術部の環境保全担当を任された佐藤は、東芝の事業所が環境のために必要なことに取り組んでいることを外部の認証機関に認めてもらうための仕事に従事した。

「外部の認証機関にチェックして認めてもらうためには、まず1年間の計画を立てて、何月には何をして……と決めます。そのうえで、PDCAサイクル(*)を回しながら、何ができていて、何ができてないのかを考えていきました。

 だから、ヘッドコーチになるときにも、チームには何が足りなくて、どんな部分を変え、どんなことを残していくのかについて、分析したうえで、プログラムを立てました。そして、今はそのサイクルを回しているところです。そういうことができるのは、やはり、あの社業の経験があったからだと思うんですよね」

(*Plan=計画、Do=実行、Check=評価、Act=改善の頭文字をとったもので、この4つの段階を踏まえて考察しながら取り組む方法論のこと)

70年の歴史のなかで受け継がれてきたもの。

 今シーズンはブレイブサンダースが途中で名前や運営会社が変わりながらも、70周年を迎える記念のシーズンである。そのために、クラブとしても様々なプロジェクトに取り組んでいる。

 運営会社が東芝からDeNAに変わり、いろいろなものが変わっていくなかで、70年の歴史のなかで受け継がれてきたものを武器にした指揮官がチームを率いる。それは単なる縁では片づけられない巡り合わせなのかもしれない。

 そんな佐藤の下で息を吹き返した川崎は、現在は全地区のなかで最高勝率をあげ、Bリーグ中地区の首位を独走していている。

文=ミムラユウスケ

photograph by B.LEAGUE