史上初となる2度目の春夏連覇を果たした最強軍団の常勝の魂は果たしてどのように受け継がれてきたのか。黎明期を支えた西岡剛、全国にその名を轟かせた中田翔、王者の宿命を背負った根尾昂が大阪桐蔭での日々を追想する。
Number983号(2019年7月25日発売)の特集を全文掲載します!

 西岡剛はもうスポーツカーに乗っていない。ネオンの光からもしばらく遠ざかっている。その代わり、8時間の睡眠、目覚めの散歩とストレッチ、半身浴、そして白球とバットで一日を満たしている。

「5台くらい乗ってましたが、再婚と同時に手放しました。20代は派手な車に乗って、飲み屋で遊びましたけど、結局、見栄の張り合いなんですよ。僕、頭良くないので、あの頃はわからなかったんです」

 21歳でゴールデングラブ、ベストナインに輝いたスピードスターはそのまま日の丸をつけ、アメリカへと突っ走ったが、やがて減速し、3年前にアキレス腱を断裂し、1年前、阪神を自由契約となった。彼はついに止まった。そこで大切なものが何かということに気づいた。

 独立リーグ・栃木ゴールデンブレーブス。今、西岡が汗を流しているのは、とてもフェラーリでは入れない北関東の農道の奥にある、ロッカー室もない地方球場である。自らの練習が終われば、不揃いなユニホームの若者たちに「テンション低いんちゃうかあ!」と関西弁とノックを浴びせる。

 野球人生の黄昏。ここに至って無性に思い返されるのが、あの生駒山の坂道をがむしゃらに駆け抜けた3年間だという。

「やめさせたいんなら、殺してみろ!」

 2000年、西岡が入学した頃の大阪桐蔭は群雄割拠の中のひとつに過ぎなかった。西岡も王者PL学園のセレクションに落ちて入学してきた選手だった。

「僕らの代はみんな中学の卒業式で特攻服を着ていたような奴らの集まりでした。入ってすぐに監督から『今までで最低の学年だ』と言われたんです。だからかもしれないですが、バットを振れなくなっても振る。捕れない打球に本気で飛びつく。そういう精神的に追い込むような練習が多かったんです。特にあの坂道ダッシュは……」

 とんがりまくった原石たちに、坂を走れと命じたのは当時30歳の青年監督・西谷浩一である。中でも、とびきりのゴン太だった西岡とは真っ向からぶつかり合った。

「少しでも気を抜いたプレーをしたら、今すぐ野球辞めろと言われ、突き放されました。でも僕も反抗するし、向かっていった」

 もう来るな! と言われても、寮に住み込んでいた西谷の部屋をノックし、食い下がった。はね退けられ、またぶつかっていく。そんな問答のうちにグラウンドで取っ組み合いになったこともあった。ついには学校から外出する西谷の車の前に両手を広げて立ちふさがり、叫んだ。

『やめさせたいんなら、殺してみろ!』

 黎明期の熱がほとばしっていた。

 なぜ、西谷がとりわけ自分に厳しく接するのかはわかっていた。部員が毎日、監督とやり取りする野球ノート。西岡はそこに入学まもなく、こう書いたのだ。

『僕は甲子園を目指していません。PLを倒して、プロで活躍することが目標です』

 つまり西谷の厳しさとは、西岡の志に見合った情熱に他ならなかった。

「僕のすごく高い目標を知ってくれていたし、こいつはどんなに厳しくしてもめげないってことがわかっていたと思うんです」

赤ペンで書かれた「継続は力なり」。

 2人のぶつかり合いは、ほとんどの場合、西岡の覚悟が試されるような罰則をもって決着した。鎌ひとつを渡され、外野スタンド全面の草を刈ったこともあった。その極めつけが坂ダッシュ100本だった。

 皆が練習しているのを横目に、外野の向こうにある左中間からセンターにかけての斜面を「1本目ーっ!」と数えながら走る。

「僕は大体、『さんじゅう××本めーっ』とかごまかして、80本くらいで終わらせていました。でも、たまにバレるんですよ(笑)」

 なんでこんなこと……と口を尖らせながらも走ったのは、なぜだろうか。

「喜怒哀楽をともにしてくれたんです。西谷さんは世界史の授業を担当していたのですが、たまに自習にすることがあって、その時、(立てた)教科書の裏で先生が居眠りしていました。本当に寝る間もなく動いていた人で、朝5時に僕の練習に付き合って、それから遠くまで自分の車で中学生をスカウトしに行って、午後の練習時間には戻ってくる。そういう背中を見ていたので……」

 そして日々、西谷に提出し、戻ってくる野球ノートには、よく赤ペンでこう書かれていた。継続は力なり――。

「ノートの一番下に、よく書かれたなあ。同じことを本気で何回も何回も言ってくれた。真剣に僕と向き合ってくれたんです」

坂道を走らされた理由が、今ならわかる。

 最後の夏。西岡たちは大阪を制し、甲子園切符をつかんだ。1つ上の中村剛也(西武)、岩田稔(阪神)を擁した世代が最強と言われながら敗れたのに、西谷から「最低だ」と言われたヤンチャ軍団が勝った。

「根性論で結果は出ません。ただ、やんちゃな集団が気合いを入れていっちょやったろかとなった時は、勝負どころでとてつもない破壊力を生むことがあるんです」

 西谷は前年の部員不祥事の責任を取り、その年はコーチに降りていた。デコボコの自分たちを押さえつけて平らにならすのではなく、凹凸そのままに組み合ってくれた熱血漢へ、11年ぶりの甲子園は彼らなりの恩返しだったのかもしれない。

 別れの卒業式。すでにロッテへの入団が決まり、関東での生活をスタートしていた西岡は髪を伸ばし茶色に染めて登校した。

「学校に行くのはもう卒業式の1日だけだし、まあいいかと。そしたら西谷さんに捕まって『坊主にして卒業式に出るか、式に出ず今すぐ帰るか、どっちかにしろ』と」

 じゃあ帰ります、と西岡が出て行こうとすると、首根っこを捕まえられ、髪に黒彩をふりかけられ、式の列に並ばされた。苦くて酸っぱい青春のラストシーンである。

 そこから数年、母校には寄りつかなかったが、今になってやけに心に染みる。

「結局、継続することが一番大変なんです。僕はそれが苦手だった。50mダッシュ10本と決めても、だるい日、体調の良くない日もあるんです。でも100%じゃなくてもいいから10本走る。そうすると案外、最後は全力で走れていたりする。今はそうやって習慣にすることができています」

 今ならわかる。なぜ、あの人が赤ペンで同じ言葉を書き続けたのか。なぜ、自分に坂道を走らせたのか。

「そういえば昔、オカンにも言われたなあ。気づいた時には遅いんやでって」

「ヒロコって僕ら言ってました」

 北海道日本ハムファイターズの4番として、プロ球界のど真ん中にいる中田翔も、高校時代を象徴するものとして真っ先に浮かぶのは、やはりあの生駒山の坂であり、そこで遭遇した「ヒロコ」であるという。

 もちろん、セーラー服の女の子ではない。

「疲労骨折ですよ。ヒロコ、ヒロコって僕ら言ってました。人間って走り過ぎたら本当に脛の骨が折れるんです」

 中田が入学したのは大阪桐蔭が全国にその名を轟かせた2005年だった。

 150km左腕・辻内崇伸と平田良介を擁して、夏の甲子園ベスト4まで駆け上がった。そのチームの中にただひとり、1年生からレギュラーとして入っていたのが中田だった。広島の中学時代から全日本のエースで4番、投げて松坂大輔、打って清原和博と言われ、同校史上最高の才能だった。

「入学から同級生は下に見ていました。ライバルは辻内さんや平田さんでしたから」

 無人の野をゆく中田に横を見ることを教えたのが、ヒロコの坂ダッシュだった。

早すぎるゲームセット、頬を濡らした中田。

 エースも4番も、控えも全員が同じスタートラインに立ち、一足ごとに鈍くなる歩みを前に進める。ゴールの瞬間、山道に倒れ込み、互いのゼイゼイという荒い息を聞きながら、同じ空を見る。誰かが隣にいるから走破できる。そういう坂道だった。

「仲間意識が高校の時は特に強かったです。みんなで監督の文句を言いながら、普通では考えられないくらい走りましたから」

 だからかもしれない。仲間たちとの最後の夏、中田は泣きに泣いた。

 誰もが最高のタレントを有する大阪桐蔭の甲子園出場を疑わなかった大阪大会決勝、金光大阪戦。エースとして3点を失い、4番としてノーヒットに終わった。3点を追う最終回、セカンドへフライを打ち上げてしまった中田はベンチに戻ると、涙をこらえることができなかった。

「僕らの代は甲子園に出て当たり前という重圧がありましたから、どうしよう、どうしようっていうのと、この仲間たちとこれで終わっちゃうんだというので……」

 早すぎるゲームセット。誰も顔を上げることができず、嗚咽だけが響く舞洲球場のベンチ裏。中田は頬を濡らしたまま立ち上がると、一度もグラウンドに立たないまま高校野球を終えたメンバーたち一人一人の背中に、こう声をかけてまわった。

『ありがとう、ごめんな――』

 中田は今、プロの世界でチームメイトたちに「大将」と呼ばれている。個人事業主の集まりであるはずが、彼のまわりには人の輪ができる。生来の気質がそうさせるのだろうが、ひたすら坂を駆け上がったあの3年間が無縁であるとは思えないのだ。

どうしたら打てるのか、初めて考えた。

 そして中田にはもう1つ、あの場所を離れてから気がついたことがある。

「プロ3年目に半月板の怪我をしたんです。言い方は悪いんですけど、そこで初めて野球と向き合いました。どうしたら打てるのか、初めて考えました」

 1年目は一軍の試合にすら出られなかった。2年目は出たものの何もできなかった。そうして迎えた3年目は開幕スタメンで意気揚々だったが、すぐに二軍に落とされて、その直後に左膝を壊した。松葉杖の自分を見て、初めて怖くなった。

「このままじゃダメだ。首を切られてしまうと初めて思いました。高校の時は投げることが好きで、打つことには興味がなかったですし、何試合か打てなくても本番になれば打てるやろって感じで、実際に1試合でホームラン3本打ったりしていましたから。プロに入ってからも、俺、中田翔だよ、ドラフト1位なんだからそんな簡単に切られないだろって思っていたんです」

 そうやって消えていったドラフト1位は数知れない。ただ、中田という才能は努力の仕方を知っていた。いや刷り込まれていたと言ったほうが正しいかもしれない。

坂道に直面した時に気づくあの3年間。

 寮の部屋でひとり。松葉杖を置くとバットを握った。テレビ画面に自分の打撃フォームを映し、これまで見向きもしなかった他の打者の映像も凝視しながら、何度も何度もバットを振ってみたのである。

 生まれて初めて自らの才を疑った瞬間、中田の胸に響いたのは、いつかあのグラウンドで聞いた声だったという。

「そういえば、西谷さんにどっしり構えることであったりとか、とにかく打席に入ったら力を抜くことであったり、そういうことを常日頃から何度も何度も口うるさく言ってもらっていたな、と。あの頃の僕はあまり聞いていなかったんですけど……」

 その年、松葉杖のとれた中田はプロ初ホームランを放ち、野球選手としての人生を切り開いていった。

 なぜだろう。あの野球部の3年間は彼らが人生の坂道に直面した時にこそ問いかけてくる。純情過多のゴン太も、才能を無造作にぶら下げていたガキ大将も、そこであの急斜面の意味に気づくのだ。

常勝の宿命を背負っていた根尾世代。

 そして今、プロ野球界の入口に立ったばかりの根尾昂はある意味で、先人たちより過酷な坂を走破してきた。

 豪雪の地・飛騨から出てきた神童が過ごしたのは、常勝の宿命を背負ってからの大阪桐蔭である。入学した2016年春にはすでに春夏合わせて5回の優勝を誇っていた。だから根尾たちの世代に対してはすべての相手が刺し違える覚悟で向かってきた。

「だから負けないための野球というか、ひとつの隙も見せないこと、そのための準備の大切さを教わりました。実戦形式の練習でも負けている展開で残り3イニング、そこからどう返していくか、ひっくり返すかというような想定をしていました」

 最初は西谷が状況を設定していたが、やがて根尾の世代は自分たちで、さらに厳しい状況設定をするようになったという。

 王者が平坦な道を歩いていたのではいつか屠られる。生駒山の斜面でもまだ足りない。ついに大阪桐蔭は自ら精神的な上り坂を生み出すまでになっていた。もちろん、練習の後には本当の坂ダッシュが待っていた。

 その強さが如実に表れたのが、根尾たちが3年生の夏、北大阪大会準決勝だった。相手の履正社は秘策として公式戦初登板の外野手を先発投手に送ってきた。

 捨て身のライバルに1点リードを奪われたまま、9回2死ランナーなしまで追いつめられた。さすがの王者もこれまでかと、多くの人が思ったが、そもそも下り坂を突っ走ろうなどとは考えていない根尾たちは極めて冷静に状況を見つめていた。

「2アウトになって後輩の中には泣いている選手もいました。ただ、僕は不思議と焦りはなかったんです。他の同級生たちもそうだったと思います。相手は投手がひとりしか残っていなかったし、前のイニングからかなりきつそうな様子が見えましたから。あの場面、ランナーが3人出ないと僕の打順はこないんですが、なぜか絶対に自分までまわってくると確信できたんです」

 9回2死で2番打者が打席に入った時、5番の根尾はすでにレガースも革手袋も装着し、バットまで持って構えていた。

 日々、急坂を上ってきた者の強さである。

 そして本当に打席はめぐってきた。3連続四球で満塁。異様な空気の中で根尾は相手投手をじっと観察し、落ち着いて4球を見送った。押し出しで同点。次打者のタイムリーで勝ち越し。決着はついた。

 彼らは最終的に甲子園を春夏連覇するという高みにまで上っていった。

未来を信じる根尾の眼。

 あれから1年。根尾はプロに入って最初の夏を二軍で迎えている。打率は1割台を這い、逆に三振の数は積み上がっていく。すると周りは言う。なぜ変わろうとしないのか。それでも、根尾は頑なに強く大きくバットを振り続けている。

「試合への準備というのは高校時代から何も変わっていません。技術的にはもちろん変わっていますし、もっと変えていくべきなのかもしれません……。ただ、自分がこうなりたいというものは変えてはいけないのかなとも思うんです。とにかく経験して、1歩ずつ上がっていかないといけません」

 この坂を上りきった先に何かがある。そう信じる根尾の眼はあの日と同じだ。

 ひとつの節目を迎えた34歳も。脂の乗った30歳も。そして、まだ漕ぎ出したばかりの19歳も。どこか通底するものがある。

 西岡が地方球場の土煙の中で呟いた。

「僕が栃木に行くと報告したら、西谷さんは『お前らしい人生の選び方だな』と、そう言ってくれました。あの人は僕らの時代も、甲子園常連校になった今も、まったく変わらない。それが凄いんです」

 大阪と奈良をまたいだ生駒山の上のグラウンドには、あの頃からずっと急斜面と大きな恰幅の情熱がそびえている。

 夏が来る。今年もまた真っ白な練習着の球児たちが、あの坂を駆け上がる。

文=鈴木忠平

photograph by Hideki Sugiyama