1972年のミュンヘン五輪で金銀銅のメダルを獲得した日本体操界のエース・笠松茂。
4年後の7月22日。彼が絶望を味わったその日に生まれた息子は五輪を目指した。

Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!

 笠松昭宏が最終種目のあん馬を終えるとシドニー・スーパードームの観衆から演技への返礼のような拍手が起こった。メダルの行方はまだ見えなかったが、その時点でやり残したことはほとんどなかった。

「僕自身ほぼ完璧という演技ができて、やるだけのことはやったという感じでした」

 だからそのあと笠松にできたことといえば日の丸のジャンパーを羽織り、仲間たちとベンチに腰かけて待つことだけだった。

 体操男子団体、最後の演技者であるロシア、ネモフの平行棒がはじまった。メダルの行方はナイーブな天秤にかけられていた。ネモフの得点が9.613を下まわれば日本は銅メダルを手にし、逆にそれ以上であれば4位となる。つまり天と地が分かれる。

諦めるわけにはいかない運命。

 見つめる笠松の眼前でネモフが力強く宙を舞い、ピタリと着地を決めた。そして何かを確信したかのように両手を突き上げた。

 笠松の童顔に影が差した。祈るように見つめた電光掲示板に得点が表示される。

 9.775。つまりは敗北。

 日本体操団体、8年ぶりのメダルはするりと逃げていった。3位と4位。両者を分けたその差は、わずか0.162点だった。

「正直、オリンピックがすべてと考えてそこまでやってきたので、すぐに4年後のことを考えるのは難しい状況でした」

 これを競技者の区切りとしてもいいくらいに全てを出し切った。それでも笠松にはこの舞台を降りるわけにはいかない理由があった、メダルを取らなければ終われない。

 ズキン、ズキンと疼くような肩の痛みを感じながら彼は「笠松昭宏」として生まれた自分の運命と向き合っていた。

リビングの棚にあったはずの金メダル。

 笠松家の自宅リビングには洋間とよく調和した棚があり、そこには体操にまつわる数々のトロフィーとともに、金色のメダルが飾られてあった。

 1972年ミュンヘン五輪の団体で父・茂が獲得したもの。誇るべきもの。ただ、なぜか一家団らんのなかでオリンピックの栄光が語られることは少なかった。

「父親も自分からオリンピックの話題を振るようなこともなかったですし、家族の中でそういう話がでることはまずなかったです。だから僕は父の過去についての番組を見たり、周りの人から聞いたりして何があったかを知ったんです」

 語られない栄光。その原因は1976年モントリオール五輪で父を襲った悲劇にあった。父はその2年前の世界選手権で個人総合を制し、オリンピックでは金メダル最有力と言われていたが、現地入りしたあと試合直前に虫垂炎で倒れると、そのまま欠場を余儀なくされたのだ。

 エース不在の日本が塚原光男らの奮起によって団体優勝を飾り、本命笠松不在の個人総合ではソ連の選手が金メダルに輝く様を、ただ見つめるしかなかった。父は失意のどん底に落ちていた。そしてまさにその日、1976年7月22日。日本で長男・昭宏が産声をあげたのだった。

「あのときの父はすべてが真っ暗になってしまったようで、本当に沈んで何もできないような状態だったそうです。その日に僕が生まれて……。ひと筋の光が差し込んだようだったと母は言ってました」

 父が不在のとき、母がそんな話をしてくれた。母・和永もメキシコ、ミュンヘンと五輪2大会に出場した体操選手である。

 リビングの棚にあるはずだったもう一つのメダル。その欠落感が誇るべき父母のオリンピック戦歴に影を落としていた。

体操選手になることを止めた父。

「父に体操をやれと言われたことはありません。ただ、父が出られなかった個人総合の日に僕が生まれたわけですから。物心ついたときにはもう、僕がオリンピックで金メダルをとるんだという気持ちでいました」

 3歳の頃から笠松の遊び場はマットの上だった。父が引退後、愛知県内に開いた「笠松体操クラブ」。つり輪や鉄棒、マットなどあらゆる器具がならんだ遊園地のような広々とした空間。父はそこで女子選手を指導し、息子に教えることはなかったが、笠松は見よう見まねで育ち、そして15歳のときに選手になりたいと告げた。

「どちらかというと父からは止められました。どうしてもやりたいのであれば応援はするけど、苦しいことを続けていかなければならない。だから無理することはないんだと。そこで僕は自分の意志を伝えたんです」

 あの棚にあるべきメダルを取り戻す。他の誰でもない。運命は自分で決めたのだ。

ベニヤ板に刻まれた日付。

 だからだろうか。笠松の歩みは他の誰とも違っていた。特定のコーチに師事することもなく、高校から帰るとひとり道場で「採点規則」という本をめくりながら技を覚えていった。

「ひとりで考えながら体操している時間が本当に楽しかったです。小学校のころにビデオで父の演技を見たことがあって、一つ一つの動きに雄大さがあって他の人よりも空間が広く感じられる。同じ技でも他の人とは違って見える。僕もそうなりたくて」

 ひとり、父の残像と向き合う日々。笠松は技が一つできるようになるたび細長いベニヤ板にその日付を記していった。

〈1993・12・26 ユ(床)前方宙返り2回ひねり、1993・12・27 テ(鉄棒)伸身サルト……、1994・1・21 ア(あん馬)把手をはさんだ横向き旋回〉

 板が文字で埋まっていくたび自分の運命に近づいていく気がした。

失意のシドニーの後、手術を決断。

 日体大では体育会の空気に戸惑い、体力筋力をつくることに苦労したが、父譲りの四肢の長さや独学をベースにした奔放な演技は異彩を放っていた。そして同じように金メダリストの塚原光男を父に持つ塚原直也らとともに、シドニー五輪代表となった。

 ロサンゼルス後に下降線をたどり、アトランタでは10位の屈辱にまみれた日本体操界を二世選手が救う――。笠松たちはそうした期待を背負ってシドニーへと向かった。

 そして、0.162点に泣いたのだ。

 終焉のアリーナ。笠松はズキンズキンという肩の疼きを感じながら、次の舞台にどうやってたどり着こうかと考えていた。

「シドニーの1年くらい前から痛かったんです。おそらくですが、つり輪の新しい技をやろうとしていて、それを無理してやったことで負担があったのかなと……」

 どうあっても次の舞台ではメダルを取らなければならない。アメリカでの手術を決断した。骨盤の一部を肩関節に移植し、ボルトで止める。手術は5時間に及んだ。

 ようやく動けるようになったのはひと月後のことだった。腕が肩の高さにさえ上がらない。マイナスからの再スタートだった。

「辛かったですね……。シドニーが終わってから潜在的に力のあった選手がどんどん伸びてきたんです。自分の力を戻さないといけない、周りに追いつかないといけないという思いもありましたから」

不安を抱えたまま臨んだ選考会。

 笠松がベッドに横たわっている間、体操界は急速に変化していた。日本協会は国際大会の好成績に報奨金を出すようになり、強化のムチを強めた。それにともなってこれまで燻っていた同世代の才能たちが目の色を変えて伸びてきていた。

 次のアテネの舞台に立てるのか。笠松は自分がギリギリのところにいるのがわかっていた。その焦りと葛藤の中で2004年東京・代々木での代表二次選考会を迎えた。

 肩の疼きは消えていなかった。鉄棒やつり輪など遠心力のかかる練習を繰り返すうちに痛みが再発した。痛み止めの注射を打ち、とにかくマットの上に立った。

 選考会初日。笠松は不安を抱えながら鉄棒に臨んだ。そして「ゲイロード2」というE難度の大技を試みた、その瞬間だった。

 ドスンッ。鈍い音とともに会場は静まり返った。落下。上位18人が最終選考へ進むという条件下でまさかの28位……。オリンピックへの道が途絶えた瞬間だった。

テレビで見たアテネの「金」。

 代表落選の夜。東京のホテルで父と向かいあった。どういう状況なのかはお互いによくわかっていた。それでも笠松は「やめる」とはどうしても言えなかった。

「もう戦えないかなとわかっていましたけど、僕もどうしていいかわからずとりあえず続けると言ったんです。父は……本当に、ただ見守っていてくれました……」

 父は相変わらず、やれともやめろとも言わずにうなずいただけだった。

 そして笠松は空っぽになったままあの日を迎えた。アテネの地で冨田洋之の体が鉄棒を離れ、月面宙返りが決まったあの瞬間、日本体操が復活を遂げたあの夜だ。『伸身の新月面が描く放物線は……、栄光への架け橋だ――』

 日本の早朝。実況アナウンサーの叫びとともに映し出された光景を笠松はひとり自室のテレビで見つめていた。

「正直、日本が金メダルを取ったことに喜びは全くなかったです。ああ、取ってしまったな……という感じでした」

 あれから15年が経つ今、笠松は偽りのない心境を吐き出した。瞳が微かに揺れた。

「うちのクラブを手伝ってくれないか」

 そしてあの後、かつてともに戦った塚原たちが救世主として光を浴びるなかで、笠松の日々は惰性に流れていった。

「毎日マットの上に立つんですが、それは他にやることもなかったからで、このまま続けていていいのかな……という思いはいつも心のどこかにありました」

 もう終わりだとわかっていても、運命の道を降りることができない。そんなとき、笠松を原因不明の高熱が襲った。

 38度の熱が何日も続き、病院に担ぎ込まれた。いくら調べても原因はわからない。まるで何かの啓示であるかのようなその高熱は、笠松をベッドに縛りつけ点滴漬けにしてひと月後にようやく去っていった。

 久しぶりに自宅に戻ることのできた笠松に父がさりげなく言ってくれた。

「うちのクラブを手伝ってくれないかと父がそう言ったんです。実際に子供たちのキラキラした眼差しに接してみると自然に吹っ切れていったというか。振り返ってみればあれでやっと諦めがついたのかな……」

 父が運命の道からそっと降ろしてくれたのか……。あのひと言の意味を振り返る笠松の目が少し赤くなっていた。

 今、笠松は体操クラブの代表を父から継いでいる。体操器具にかこまれた空間。振り返れば3歳からずっとここにいる。

 まだクラブ生がやってくる前の昼下がり。しんとした道場内を見渡し、笠松はふと目を止めた。片隅に裏返しにされた一枚のベニヤ板があった。そっと手に取る。

「これ、懐かしいですね……」

 年月の経過を示すように赤茶けた板にはびっしりと技の名と日付がならんでいる。

 父を、運命を、追いかけた日々。

 そのとき、正面玄関のドアが開いて赤ん坊を抱えた女性が入ってきた。

「夏に生まれたんですよ。男の子が……」

 妻とまだ1歳にならない長男を前にして笠松が少し照れたように笑った。

 ここに新たな運命がある。

 笠松はこちらが聞きたいことを察した。

「この子が体操をね、やりたいと言えば全力で応援しますよ。でも僕も父と同じようなことを言うのかなと思います。選手としてやりたいのであれば、苦しいこともやっていかないといけないんだよ。無理することはないんだよと。そう言いたいです」

 まだ物言わぬ赤子を見つめ、笠松は恍惚とも憂いともつかぬ表情をした。

笠松昭宏(男子体操)

1976年7月22日、三重県生まれ。愛知高、日体大卒業後、大学院に通いながら徳洲会に所属。シドニー五輪後に中京大職員となり、アテネ五輪を目指すも代表入りできず、'07年引退。現在「笠松体操クラブ」の代表として指導を行う。

 ◇  ◇  ◇

<この大会で日本は…>
【期間】2000年9月15日〜10月1日
【開催地】シドニー(オーストラリア)
【参加国数】199
【参加人数】10,651人(男子6,582人、女子4,069人)
【競技種目数】28競技300種目(テコンドーなどが追加)

【日本のメダル数】
金5個 高橋尚子(女子マラソン)、野村忠宏(柔道60kg級) など
銀8個 田島寧子(400m個人メドレー)、篠原信一(柔道100kg超級) など
銅5個 岡本依子(テコンドー67kg級) など

【大会概要】
1956年のメルボルン大会以来44年ぶりの南半球での開催。地元オーストラリアのイアン・ソープが17歳で、競泳男子4×100mフリーリレーなどで金メダル3つ、銀2つを獲得した。フィリップ・トルシエ監督率いるサッカー日本代表はベスト8、野球はプロ選手の参加が解禁されたが、惜しくも4位に終わった。

【この年の出来事】
雪印乳業食中毒事件発生。『ハリー・ポッター』ブーム。IT革命が流行語に。

文=鈴木忠平

photograph by PHOTO KISHIMOTO