日本の体育や部活動にも、シーズン制を取り入れたい――。

 それは、ある時から彼が抱いた切なる願いであり、機会があるごとに仲間や関係者たちに提唱してきた、実現すべき夢でもある。

 フィジカルトレーナー、中村豊。

 世界有数のアスリート養成所、IMGアカデミーのテニス部門でフィジカル&コンディショニング・ヘッドコーチを務め、錦織圭やマリア・シャラポワら数々のアスリートをトップに引き上げてきた、この世界のカリスマ的存在である。

 18歳で“スポーツ大国”アメリカに渡り、トレーナーになるべく大学教育を受けてきた中村が肌身で感じたのは、この国ではスポーツが文化として根付いていること。そして、まだスポーツという概念も持たない子供から本格的なアスリートたちまでもが、様々な競技を通じて、身体を動かす喜びを体現していることだった。

「アメリカでは、高校・大学含めて子供の頃から多くのスポーツを体験し、アスリートはどんな競技でもできるという考え方が教育の土壌にあります。部活動もシーズン制なので、新学期が9月から始まり、秋はアメリカンフットボールやサッカー、春からはテニスやゴルフ、陸上という風に、複数の競技をすることがシステム化していますから」

複数の競技に取り組むメリット。

 複数の競技に取り組むことは、運動生理学的な見地からも実に理に適っていた。アメリカでは“クロストレーニング”という言葉で、広く認知されている理論でもある。

「特定の競技だけをやっていると、どうしても動きや筋力に偏りが生まれます。反復練習はスポーツにおいて不可欠ですが、同じ動きを繰り返すことで歪みも生じてしまいます。1つの動きを極めるということは、身体の動きが固定されてしまうことでもある。

 テニス選手ならコート上を、陸上の短距離ランナーならトラックを走る体つきになります。そこから一歩外れて違う動き方をすることで、眠っていた神経に刺激が入る……オフになっていたものがオンになることは大きいです」

 ではなぜ日本では、複数の競技をプレーするアスリートが少ないのだろうか?

シーズン制がなく1つの道を極めがち。

 そう考えた時にまず明確なのは、日本のスポーツ教育現場には、シーズン制がないことだった。

 さらには、「1つの道を極める」という日本人のメンタリティや文化的背景が、スポーツ界にもあまねく浸透してるのではないかと思い至る。それはもちろん、悪いことではない。現に日本のアスリートの技術レベルは、どの競技においても高く評価されている。

 ただそのような職人気質が、少年・少女の可能性を狭めているのではないかとの疑念も湧いた。その仮説は、中村自身が野球少年として過ごした実体験にも根ざしたものだ。

「小学校低学年の時に、野球かサッカーかの選択を迫られ、以降ずっと野球ばかりやってきました。週末は野球漬けで、試合やノック以外の練習といえば、ひたすら走る。そうして中学に上がった頃には、50〜60名いた野球少年たちの大半が燃え尽きてしまいました。

 僕も野球に疲れて他のスポーツをやりたいと思った時、姉もやっていたし、個人競技にも興味があったのでテニスを始めたんです」

渡米して出会った名トレーナー。

 12歳という比較的遅い年齢でラケットを握った中村は、先行するライバルたちとの差を埋めるべく、テニス雑誌や書籍を読み漁った。コート上の練習だけでなく、オフコートのトレーニングでフィジカルや、メンタルをも鍛えられると知ったのもこの頃のこと。マルチナ・ナブラチロワの著書を読み、食事を変えることでテニスが強くなるという事実にも衝撃を受けた。

 かくして、スポーツの世界の多角的な深みにのめり込んだ中村は、高校卒業と同時に渡米。留学先のホップマン・テニスアカデミーで恩師とも言える名トレーナー、パット・エチェベリと出会い、自らもその道を志すようになった。

 アメリカで1970年代頃に隆盛となった“ストレングス&コンディショニング”という概念は、かのスポーツ大国でも、競技選択の年少化が進む中で生まれたという。

 前述したように、特定の動きを過剰に繰り返すことは身体に歪みを生み、それが故障の原因にもなる。その歪みを、かつては複数の競技をまんべんなくプレーすることで自然と矯正できたが、スポーツのレベルが上がりアスリートの先鋭化が進む現在では、それも困難になってきた。

 そこで誕生した専門職が、“ストレングス&コンディショニングコーチ”である。

「ムーブメント」に集まった注目。

「僕たちの仕事は、パフォーマンスの向上と、スポーツ障害防止……つまりケガの予防です。“ストレングス”は筋力アップのトレーニング。アメフトのような出力としての筋力や、テニスのようなスピード系などが入ります。“コンディショニング”は、日本語だと『調整』という風に捉えられがちですが、アメリカだと心肺機能の向上です。 バイクを漕いだり、インターバル走も含む中長距離走、プールでのトレーニングなどがこれに相当します。

 その基本の2つに加え、この15年くらいで注目されるようになったのが、ムーブメントです。'70年代頃は、トレーニングと言えば大きい筋力をつけるという感じでしたが、最近多く求められるのが、効率の良い身体の動かし方の体得です。動き始めや方向転換の際に大きな筋肉から動かすというような、縦横の動きや切り返し、瞬発力など、機能の向上が叫ばれています。

 機能向上とスポーツ障害予防は表裏。テニスのサーブや野球のピッチングもそうですが、誰しも利き腕/利き足があるので軸の形は常に同じであり、その反対側の手足の遠心力を使ってパワーを放出する。そうすると、股関節や肩関節、肩甲骨の使い方は上手になるのですが、上達すればするほど歪みが生じケガの原因にもなります。その身体の癖を取るためにもストレングス・トレーニングは必要ですし、競技に特化した動きでは養えない筋力や回旋などをトレーニングで補えば、効率よくパワーも出せるし故障も防げるという理論です」

常に同じではマンネリ化してしまう。

 そのような歴史的背景と役割を自覚した上で、現在IMGアカデミーで活躍する中村は、他競技との交流……すなわち、クロストレーニングを推奨している。

「競技をまたいだ合同練習やトレーニングをトレーナー間でも話し合いながら選手たちに勧めています。それは肉体だけでなく、マインドを刺激するうえでも効果があるからです。飽きないようにすることは、上達のためにとても大切。常に同じ環境、同じ人間といるとマンネリ化してしまう。

 その鈍化した感覚に刺激を入れる意味でも、他のスポーツを通して新しい体の動き方を感じることは重要だし、それがアスリートの喜びでもあると思います。また、他のアスリートと接することで『こんなことができるんだ』と目からも刺激が入り、メンタルバリア(思い込み)を破る効果も期待できます」

14歳の錦織はサッカーが上手かった。

 だからこそ中村は、現在指導にあたっているデニス・シャポバロフ(カナダ)にバスケットボールをさせたり、昨年のウィンブルドンJr.優勝者の望月慎太郎には野球をさせているという。

 さらに指導者の視座から見た時には、クロストレーニングは、選手個々の能力や特性を知るための格好の場でもあるようだ。

 例えば中村には、14歳の錦織圭を見た時の鮮烈な驚きの記憶がある。

「圭にサッカーをさせた時、彼の視野の広さに驚きました。5対5など複数のプレーヤーがいるフィールドに選手を入れると、物の捉え方や脳の使い方が見える。ボールを一途に追う選手もいるし、ゴールを目指すためにどう動けば良いかを考えたり、他の選手との距離感を取る選手もいる。圭はフィールド全体を見て、とても良いポジショニングをしていた。点を取ることを考えながら動いているのが分かるので、彼の動きを見るのは楽しかったですね」

 クロストレーニングは、アスリートの能力を高め可能性を押し広げる。それは同時に指導者にとっても、新たに得られる刺激であるようだ。

他の指導者と連携する重要性。

 その上で中村が自戒的に口にするのは、選手にとって何が一番大切かを、他の指導者たちと連携を取りながら見つけていくことの重要性だ。

「今は1人のアスリートに対し、競技のコーチがいて、ストレングスコーチにアスレティックトレーナー、さらに栄養士もついている。それら全員がチームとして、選手をどう導いていくかのビジョンを共有しなくてはいけません。僕の役目はパフォーマンスの向上とケガの防止ですが、他の分野のスペシャリストが集まるチームの中で、自分の立ち位置を理解して活動することが大切です。

 皆がアスリートの強化という1つの目的のために集まってますが、バックグラウンドはそれぞれ異なる。そこを受け入れる懐の深さも必要だし、コミュニケーションを取りながら、一緒に仕事をする仲間の知識を得ていくことも大切です」

 選手を導く側も、他分野と交流しながら知識を与え合うこと――すなわち、ある種のクロストレーニングをすること――で、互いの成長を促していける。

 未知の刺激が眠っていた感性を賦活し、新たなステージへの扉を開くのは、アスリートに限ったことではないだろう。

 その先で中村が目指すのは、アメリカ的フロンティア精神と日本の職人気質を交錯させ、豊かで多様性に満ちた独自のスポーツ文化を築き上げていくことだ。

文=内田暁

photograph by Getty Images