Jリーグが開幕した1993年、「スーパーサッカー」がスタートした。それから27年間、Jリーグとともに歩みをつづけ、スポーツ報道の視座を維持しながら企画でも魅せる番組作りで多くのサッカーファンに愛され、今なお支持されている。

 幾多の番組終了の危機を乗り越え、今も走り続ける「スーパーサッカー」の歴史とその魅力について、25年間、番組に携わり、プロデューサーでもあった名鏡康夫氏に話を聞いた。

――スーパーサッカーが誕生した経緯を教えてください。

「1993年5月15日、Jリーグの開幕日に『速報Jリーグ』という番組をスタートさせたんです。これは簡単にいうとプロ野球ニュースのサッカー版みたいなもので深夜枠だったのですが、Jリーグブームに乗って非常に好評だったんです。

 ただ関東ローカルだったので、それを全国区にしようということで10月に誕生したのが『ネスレ・スーパーサッカー・Jリーグエクスプレス』です。生島ヒロシさん、西田ひかるさん、金田喜稔さんでスタートしたのが『スーパーサッカー』のはじまりですね」

――いい流れに乗ってスタートしたのですね。

「いや、実はそうでもなくて……(苦笑)。全国ネットになったんですが、スポンサー(ネスレ日本)が1社提供になり、代理店主導になったんですよ。それで新しいプロダクションが入ってきて、バラエティな要素が主流になり、番組がかき乱されて……自分たちの意図する番組じゃなくなって僕らは腐っていました。

 実際、1回目のゲストにリネカーを呼んだんですけど、内容がサッパリで、それを見ていたチェアマンの川淵(三郎)さんが『なんだ、この番組は!』と怒ったというのが聞こえてきましたからね」

企画が二転三転した草創期。

――何がさっぱりだったのですか。

「新しいプロダクションが持ってきたバラエティ企画が『ビートたけしのスーパースター列伝』というコーナーだったんです。ペレやベッケンバウアーとか往年の名選手について山際淳司さんと語り合うというものだったんですが、面白くなくて、視聴率的にも苦戦したんです。

 それで1994年の頭にテコ入れしようということになって、そのコーナーを『ビートたけしのサッカー小僧』というタイトルにして、たけしさんとうちの渡辺真理アナ、金田さんの3人でサッカーのFKの面白さとか、そういうのを見せていくものに切り替えたんです。そのコーナーの評判が良くて、徐々に視聴率も良くなっていきました。その矢先にたけしさんがバイクの事故を起こして……。どうしようかとなって、試合VTRを軸とした今の『スーパーサッカー』の形になっていったんです」

西田ひかる、三井ゆり、白石美帆。

 初期から中期にかけてのスーパーサッカーで特徴的だったのが、女性アシスタントだった。西田ひかるは知名度のあるタレントだったが、その後につづく三井ゆり、白石美帆は新人アシスタントとして起用された後にブレイクし、芸能界で活躍するようになった。

――三井ゆりさんの起用のキッカケは。

「スタートした時にネスレ日本の1社提供だったんですが、番組で生CMをしていたんですよ。その時、商品を紹介していた3人の女性のうちのひとりです。三井さんはかわいかったし、性格も良かったので、CMでサヨナラするのはもったいないなと思って起用しました。

 アシスタントの経験はないですけど、CMが出来ていたのでしっかりしていましたし、生島さんがうまくリードしてくれたので特に心配はなかったですね。サッカーについて理解を深めてもらおうと思って彼女が審判になる企画をやってもらったら『サッカーの女神』と言われてブレイクしました。それは番組的に大きかったですね」

――次の白石美帆さんもブレイクしました。

「白石さんは、1998年の夏ごろにオーディションを受けてもらって最後に残った3人のうちのひとりでした。まだ女子大生で、しゃべりはどうかなぁと思っていたんですが、溌剌として明るいですし、うちの番組のトーンに合うかなと思いました。

 最初は何もできなかったので生島さんに手伝ってもらいながら話し方を学んでもらったり、あと現場にどんどん連れていきましたね。メディアや選手、チーム関係者に会って話をして、それでみんなに可愛がられるようになっていきました。

 2006年に卒業したのですが、他番組のMCや女優にも挑戦して売れっ子になって(笑)。そうなるとスーパーサッカーの白石美帆と紹介されることが多いので番組の宣伝にもなり、相乗効果で彼女も番組もいい波に乗れたと思います」

MC徳永英明という異色の人選。

 現在のスーパーサッカーのMCは、加藤浩次氏(極楽とんぼ)だが、実は3代目になる。初代は生島ヒロシ氏、そして2代目はミュージシャンの徳永英明氏だった。この独特の人選は、名鏡氏のテレビマンとしての感覚であり、センスでもあるが、かなりの冒険でもあったはずだ。

――サッカー番組で徳永さんのMC起用は、かなり異色でした。

「当時、徳永さんは報知新聞でサッカーのコラムを連載していたんです。それが面白くてダメもとでアプローチしてみようということで連絡をしたら『明日、大阪でライブがありますが来られますか』と言われて、すぐに行ったんです。

 食事をしながら話をして、最初は『司会はしたことない』と難しい表情していたんですけど、サッカーの話をしているうちに乗ってきて、話が決まりました。木梨(憲武)さんやジョン・カビラさんの名前も挙がったんですが、生島さんの明るく快活なイメージからMCの雰囲気をガラリと逆転させて、毒みたいなものがあっていいかなって思ったんです。そういう考えってテレビ屋の悪いところなんですけどね。2001年1月に徳永さんでスタートしたのですが、5月には“もやもや病”により倒れてしまったので、そこは残念でした」

「司会・加藤浩次」のスタート地点。

――加藤さんの起用は。

「また、ちょっと冒険に出たという感じでした。加藤さんはサッカー経験者で、以前特番に出てもらった時があって、面白かったんです。もちろん司会業はまだやったことがなくて、オファーしたら彼もびっくりして『大丈夫ですか、俺で』という感じでした。

 その時に、いきなりメインを任せるというより『スーパーサッカーは車輪が足りないから、そのひとつになってほしい』という話をしたんです。過度に期待すると、プレッシャーが大きくなるので、そういう話し方をしたのですが、それが彼に響いたようでした」

――加藤さんのMCとしての魅力は、どういうところでしょうか。

「サッカー経験者ですし、『スッキリ』(日本テレビ)があるにもかかわらず、深夜まで海外を含めてサッカーをよく見ているんですよ。それにサッカー選手をリスペクトしている。

 オグ(小倉隆史)がレギュラー解説者になった時、加藤さんの方が年上なのですが、ずっと『小倉さん』と呼んでいたんです。彼が言うには『自分はサッカーで挫折したのでJリーグまで極めた人はみんなすごい』ということでリスペクトしているんです。

 司会は初めてだったけど、今や『スッキリ』などの活躍でお笑いというよりも『司会の加藤』になっている。そのキッカケになった『スーパーサッカー』にすごく恩義を感じてくれているので、今もつづけてくれているのかなと思います」

試合VTRは負けた側の視点でもいい。

 スーパーサッカーのメインは、試合のVTR映像である。ただ、そこには単にゴールシーンやスーパーなプレーを紡いで見せるだけではない、「こだわり」があるという。

――試合のVTRを作る上で大事にしていたことは何でしょうか。

「試合に行った記者が現場で感じた雰囲気とか面白いと感じたものでVTRを作るということです。例えば、レッズ対マリノスの試合があって、レッズが勝ったけどマリノス目線でVTRを作ったとするじゃないですか。そうすると視聴者から『なんでレッズじゃないんだよ。レッズが勝った試合じゃないか』というお叱りの声が届くんです。

 でもそれは記者の目線、現場で感じたストーリーなので、それでいいんですよ。僕らの試合映像が飽きないと言われたのは、そういう現場の空気を活かして自ら構成作家になってVTRを作ったからだと思います」

――展開が分かりやすい場合はいいですが、0−0で見どころがぼんやりした試合もあります。そういう試合のVTRは編集が大変ではないですか。

「0−0で、内容がもうひとつだとしてもうちはまったく平気でした。そもそもゴールだけじゃないぞっていう意識でVTRを作っていましたからね。試合が今ひとつでも若い選手中心に作ったり、成績が振るわずサポーターから「やめちまえ」と言われたりすると、そっちで広げて作れないかと考えてVTRを作ったりしたので」

フットサルを大々的に扱ったのは初?

――スーパーサッカーは、「バナナキング」や「ボレーの虎」の企画モノ、「崖っぷちランキング」とかのコーナーも充実していますね。

「崖っぷちは、J2降格というレギュレーションが出来たので始めました。崖から落ちるみたいな変なフリップを使って、曲もおどろおどろしい感じにして『落ちるのは恐いよ』というのを印象付けるようにやったんですが、おかげさまで評判は良かったですね。

 あと、個人的にはフットサルの企画が印象深く残っています。今は『スパサカオールスターズ』というチームで対戦企画をやっていますけど、最初は『コモエスタ赤坂』というチーム名でやっていました。これは、フットサルを盛り上げてほしいとサッカー協会に頼まれて始まったんです。当時はプロのフットサル選手がいないので水沼(貴史)さんとかマリーニョに来てもらってやりました。

 1996年の全日本フットサル選手権は日産カップという大会で有明で開催されたんですが、その時は決勝戦が前座で、メインはコモエスタ赤坂の試合だったんです。お客さんがけっこう入って大盛況でした(笑)。今ではフットサル対戦企画とかは普通ですし、フットサル自体リーグが出来てプロ選手もいますけど、これは当時だからできた企画で思い出深いですね」

 企画は、年間スケジュールを見て、オフシーズンは何をするのか、というのを大枠で決めていたという。支持されるのもあれば、数回で消えていくのもある。消えていく企画の上に支持される企画が成り立ち、それが番組の視聴率を支えていく。独自の企画と独特の試合VTRの両輪が「スーパーサッカー」の軸になっていったのである。

文=佐藤俊

photograph by TBS Television