雑誌『Sports Graphic Number』が創刊40周年、通算1000号を迎えました。記念すべき1000号の特集テーマは「ナンバー1の条件」。NumberWebではこの特集を記念して、「私のナンバー1」という特集記事を配信することにいたしました。今回は、スポーツジャーナリストの田口元義氏が綴る、「忘れられない、WBCでの福留孝介の1本」の記憶です。

 野球界では、同い年の選手を「世代」として表現することが多い。

 最も有名なのは、西武の松坂大輔が旗頭の「松坂世代」。以後、ヤンキースの田中将大を筆頭とした「田中世代」、最近では、日本ハムの清宮幸太郎が牽引すると期待されている「清宮世代」が挙げられる。彼らは高校時代に、圧倒的なパフォーマンスを誇示して脚光を浴びた。その力に触発されたライバルたちが、追いつき追い越せとばかりに研鑽を積み、プロへ進んで実績を伸ばす。そうやって、世代の印象を年々、強めていく。

 筆者が生まれた1977年は「福留世代」である。

 福留孝介は、PL学園時代から「世代最強」のスラッガーとして名を轟かせていた。

 高校3年の夏に大阪大会記録の7発。甲子園でも2本のアーチを描くなど、通算40本塁打を記録した。'95年のドラフト会議で高校生史上最多の7球団から指名されながら、交渉権を獲得した近鉄への入団を拒否したことも話題を呼んだ。

因縁の相手・韓国に引導を渡した福留の一発。

 世代の先頭を走る男は、日本代表の常連でもあった。

 高校3年の甲子園後にアメリカ、韓国との親善試合で日本代表の主将を務め、日本生命1年目には、19歳ながらアトランタ五輪の代表に選出。中日に入団後の2004年にもアテネ五輪に出場した。

 その福留を語る上で欠かせない1本がある。

 '06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。準決勝の韓国戦で放った決勝本塁打だ。それは今も、侍ジャパンの歴史に色濃く刻まれている。

 予選から2度も辛酸を嘗めさせられた相手に引導を渡した一発。日本の世界一を大きく手繰り寄せるパフォーマンスを発揮しながら、当の福留はあの時、喜びとは別の感情も去来していたのだという。

「たまたま、ああいう結果になっただけで。打てたのはよかったですけど、代打っていうのは自分としては本意ではなかったですから。そういう部分では悔しさはありました」

 本来ならば、福留はこの大会に出る予定はなかった。

 ヤンキースの松井秀喜が出場を辞退したことで、いわば「代役」としてオファーされたわけだが、一度は「辞退しよう」と考えていたという。

実はWBC前に大幅な打撃フォーム改造に着手していた。

 出場を決めたのは、アテネ五輪で長嶋茂雄(脳梗塞により、本大会では中畑清が監督代行を務めた)と共に戦っていて、この第1回WBCでは、指揮を執るのが王貞治だったからだ。プロ野球のレジェンドであるONの下でプレーする、貴重な経験を逃したくないと思ったのである。

 侍ジャパン入りを承諾したとはいえ、福留は自身のパフォーマンスに懐疑的だった。

 というのも、前年のシーズン終了後から「あそこまで思い切って変えたのは初めてかもしれない」と自己分析するくらい、大胆な打撃フォーム改造に着手していたからである。WBCへの出場を断念しようと考えたのも、そのためであった。

 新たな「形」を体に染み込ませ、自分のものにするためには、相応の過程が不可欠となる。従来のシーズンであれば、春季キャンプでバットを振り込み、オープン戦などの実戦で感覚と反応を擦り合わせながらシーズンに突入し、仕上げていく。ところが、3月開催のWBCまでの実戦は少なく、思うような調整ができないことを福留は理解していた。

「自分のバッティングフォームが『どういう風になっているのか?』というのが、よくわからなかったんでね。最終確認する時間が少なかったんで苦労しました」

我慢に我慢を重ねた上でのホームラン。

 準決勝の韓国戦まで、クリーンアップとして出場しながら19打数2安打。周囲から不振といった目を向けられはしたが、福留からすれば想定内だった。ひたすら「悪い部分」と向き合い、フォームを仕上げていたのだ。

 そんな状態からようやく上昇曲線を描き始めたタイミングが、韓国戦だったのである。

 大会で初めてベンチスタートとなった試合、福留の名がコールされたのは7回だった。

 スコアは0−0。

 1死二塁の先制のチャンスで、キム・ビョンヒョンの3球目ストレートを振り抜いた打球が、美しい放物線を描きながらライトスタンドに吸い込まれた。

 低調なパフォーマンスを理解しながら我慢し、スタメン落ちの悔しさも味わった。この一発こそ、福留の意地だった。

「福留世代」が歓喜した、あのアーチ。

 値千金の本塁打で韓国の息の根を止め、日本は6-0で勝利。

 福留はキューバとの決勝でもスタメンから外れたが、9回に代打で登場しタイムリーを放った。

 22打数4安打、打率1割8分2厘。

 WBC初代王者に輝いた侍ジャパンにおいて、福留の成績は振るわなかった。

 国際大会では、よく「日の丸の重み」とパフォーマンスをイコールにされがちだが、アマチュア時代から世界を知る福留にとって、どの舞台であろうとモチベーションに変わりはない。世間の風潮に釘を刺すように、このような持論を述べていたものである。

「僕は『日の丸の重み』を強く思わないようにしているんです。だって、国際大会だからといって特別なことができるわけじゃない。いつも取り組んでいることを試合で出すのは、シーズンでも同じことだから。変に日の丸を背負ってしまうと、気持ちばかり先走ってしまうというか。これまでそういうことも感じていたし、そこから余計なプレッシャーに結びつくのも嫌ですからね」

 WBCでの福留は、確かに数字を残していない。だが、結果を残したことは、あの韓国戦の決勝弾で誰もが納得している。そして、多くの「福留世代」が自分のことのように喜び、あのアーチに酔いしれたはずである。

あの1本から“本物の”福留孝介が始まった気が。

 福留に「世代」のことを尋ねたのは、この年のシーズン終了後のことだった。

「福留世代……どうでしょうかねぇ、(斉藤)和巳のほうがすごくないですか?」

 2度目の沢村賞を獲得した、当時の「球界ナンバーワン投手」を挙げ、自らが世代の象徴であることを否定気味に返した。

 その福留も、このシーズンで2度目の首位打者となり、セ・リーグMVPに輝いた。名実ともに球界を代表する打者の称号を手にしたのである。

 あのWBCから、福留の「本物」への道が本格的にスタートしたような気がする。

今季を球界最年長で迎えることになった43歳。

 '08年にメジャーリーグに挑戦し、翌年の第2回WBCでも連覇に貢献した。阪神に移籍後の'16年には日米通算2000安打を達成し、世代で初の名球会プレーヤーとなった。そして今年は、「球界最年長」の43歳でシーズンを迎える。

「松坂世代」や「田中世代」のような華やかさはないかもしれない。

 '77年生まれにとって、それは大きな問題ではない。今もなお第一線で奮闘する世代最後のプロ野球選手である象徴を誇り、「中年の星」として励みにできるだけでいいのだ。

 何より、WBCの大会が近づき、開催される度に、余韻に浸ることができる。

 新型コロナウイルスの影響で、来年に迫った第5回大会が'23年に延期となったが、あの場面が色褪せることはない。

 それほど、宿敵を沈めた福留孝介の一発は、痛快だった。

文=田口元義

photograph by Naoya Sanuki