折茂武彦は、同学年で気心の知れた東野智弥から何度かファミリーレストランへ誘われた。

「毎日、夜中に連絡が来て、必ずデニーズか何かに呼ばれて」

 選手としてのキャリアに終止符を打った稀代のスコアラーが5月3日、オンラインで引退会見を開いてから数週間。穏やかな表情の折茂は“当時”を思い出して、そう話した。

 当時とは、折茂が27年という長い選手生活の後半生を送ることとなったレラカムイ北海道への移籍を決めた2007年のことだ。

 折茂と東野は2001年から04年にかけて、選手とアシスタントコーチとしてともに強豪・トヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)に所属していた。2人は日本で開催された2006年の世界選手権(現ワールドカップ)でも日の丸を背負った仲だった。

「日本のバスケットボールを、俺たちの世代で変えないとだめだ」

 折茂は東野や、やはり同学年の盟友・佐古賢一とそんな熱のこもった言葉をよく交しあったという。

勝ち負け以外の“何か”が必要。

 レラカムイの初代ヘッドコーチ就任が決まっていた東野はチーム編成を考えていたが、北海道という地方の、海の物とも山の物ともつかぬ新規チームだ。勝ち負け以外でも“何か”を求めていく必要性が念頭にあった。

 現在は日本バスケットボール協会で技術委員会委員長という要職を担う東野が、熱く振り返る。

「見ていて面白くするための、インパクトのある選手が必要だとなった。僕はその時、2人、可能性のある選手を選んだわけです。それが田臥(勇太、現・宇都宮ブレックス)と折茂だったんですね」

 結果、折茂が決断した。彼のトヨタでのチームメイトであり、やはり06年の世界選手権でプレーした桜井良太も運命を共にすることとなった。

すんなり契約書にサインをしたわけではない。

 ただ、折茂がすんなり契約書にサインをしたわけではなかった。

 日本のバスケットボールを野球やサッカーのような大きな存在にしたいという想いは強かった。

 しかし、大学卒業から14年間所属し3度のリーグ優勝など数々の栄光を味わってきた大企業の球団から、何も保証のない新興プロチームへ移ることをそう軽々には決められるはずはなかった。

 そもそも、プレーを続ける必要もなかったといえばなかった。当時、折茂は既に37歳。当人も選手としてのピークは過去のものとなっていたことは自覚していた。

純然たるプロチームで、プロ選手としてプレーする。

 一方で、実力が急激に落ちたとも感じていなかった。

 上述の世界選手権。トヨタではすでに先発の地位を失い出場時間も減っていた折茂は、クロアチア人のジェリコ・パブリセビッチHCの指揮する日本代表で全試合先発出場を果たした。

 日本は1勝4敗でグループリーグをもって敗退したが、得意の3ポイントシュートを武器に(成功率43.3%)、折茂はチームトップの平均12.2得点を挙げた。

「自分としてはまだできるなと。であれば、このまま終わるわけにはいかないと思った」

 そう振り返った折茂。引退という選択はなくなったが、出番の減ったトヨタに残るというそれも消えていた。

 東野が記憶をたどる。

「最後は、品川のなんとかっていうホテルのロビーで(折茂、桜井が)並んで、どっちが先にサインするかみたいな感じで(笑)。最後は2人ともサインした、というところから始まったんですよね」

 純然たるプロチームで、プロ選手としてプレーするということがどんなものか。折茂がかねてから夢想していた状況がついに訪れた。

地元ファンからの感謝の念を肌身で感じた。

 もっとも、北海道に渡ってからの苦労は想像を超えた。レラカムイは運営会社の経営悪化でJBLより除名処分となった。それを受けて折茂らは私財を投じてレバンガ北海道を立ち上げた。

 コート上でも、常勝だったトヨタ時代とは勝手が違った。レラカムイ、レバンガの計13年間でチームが勝ち越したのは3度、プレイオフには1度しか進めなかった。

 ただ、北海道へ行かなければ、折茂は“折茂”たりえなかった。

 プロバスケットボールチーム不毛の地だった北海道へ行き、レバンガを設立したことで危ぶまれた球団存続を実現させた。

 胃の痛くなる思いと引き換えに、折茂は地元ファンからの感謝の念を肌身で感じ、初めて自身が「求められる」存在となったことを実感した。それは何物にも代えがたいものだった。

キャリアの最後を、佐古と同じチームで。

 現在はBリーグができ、スター選手、トップクラスの選手が大都市圏以外の、地方のクラブでプレーする例も徐々に増えてきている。JBLのライバル的位置づけとなったプロのbjリーグの誕生と同様、田臥のブレックス入団、折茂の北海道移籍はリーグの全国への拡大と選手移籍活性化の先鞭をつけたと言える出来事だった。

 最初からそういったことを意識していたわけではなかったと、折茂は語る。実際、北海道以外の選択肢も頭にあった。

 それはキャリアの最後を、佐古と同じチームでプレーして終えるということだった。

 折茂と佐古は日本代表では何度も同じユニフォームを身にまとってはいたものの、普段のリーグではライバルチームに所属した。しかしこれは北海道移籍ほど具体的に動いた話ではなかっただろう。佐古が当時、在籍していたのはアイシンシーホース(現・シーホース三河)。トヨタ系列の同軍への移籍は、折茂に言わせれば「ご法度」だったからだ。

「折茂のことを理解できない」時期があった。

 日本のバスケットボールを見てきた少し古いファンならば、折茂と佐古の結びつきを知らぬ者はいまい。ともに実力を認め合った者同士だ。

 ただ面白いことに、最初から密接な関係だったかというと必ずしもそういうわけでもなかった。

 佐古は当初「折茂のことを理解できない」時期があったと言う。普段の折茂は「とても気が弱く、優柔不断な男」だと感じていた一方で、コート上での彼は「負けず嫌いでプライドが高く、根拠のない自信家」だと思っていた、というのだ。

 負けず嫌い、というところは恐らく当たっていた。ただ折茂が根拠もなく自信を持ってプレーしていた訳ではないことにやがて気づく。折茂のすごさは「シュートがうまい」という一言で語られがちだが、実際にはそれだけではなく、相手との絶妙な間合いの取り方やスクリーンの使い方など、シュートへ行くまでの過程などにも優れていたからこそ、得点を量産できていた。

「個の力を引き出すためにチームの力を引き出す」

 今は映像技術等が発達し、スタッフや選手らは相手のプレー傾向などをそうしたものを使って事前にスカウティングする。が、5月14日に年齢を50歳の大台に乗せた折茂のやり方はオールドスクールなもので、相手との対戦のなかから「この選手のディフェンスはどういう行き方をして、どういう癖があるのか、フェイクには引っかかるのか、飛んでこないのか」(折茂)などを頭に入れて試合に臨んでいた。

 そうした影の努力を知るにつれ、折茂のコート上での自信には根拠があるのだと、佐古は合点した。

 またシュート力など個人の能力ばかりに焦点があたりがちな折茂だが、一方で抜きんでた身体能力等があったわけではないのは、折茂自身や佐古、その他の関係者も意見を異にしない。そんな折茂が活躍できたのは「個の力を引き出すためにチームの力を引き出す」ことができたからだと佐古は言う。

「パスを供給する自分のポジションのイメージと、パスを受ける折茂のイメージはとても合致した」

 佐古の言葉に、折茂とのコンビネーションを懐かしむトーンが滲む。

「試合に出続けられた」ことが一番の練習。

 しかし、佐古のように一緒に戦った者ならばともかく、折茂がどのような練習を積んで優れた選手となったのかは、外部の我々には伝わりにくいところがあった。

 練習量が格別多かったわけではない。実際、チーム練習以外の練習に時間を割くことはしなかったという。

 理由は明快だった。チーム練習のなかですべきことを、実戦に即した練習を、集中してやっていれば十全だと考えていたからだ。また、折茂は自身が若い時から「試合に出続けられた」ことが一番の練習だったと強調する。

「そこ(試合)で大きな自信にもつながったし、やっぱり練習と試合ではまったく違うので。試合で得られるものは非常に大きかったですね」

「僕を特別扱いする必要はありませんよ」

 現在は男女の3人制日本代表のディレクターコーチを務めるドイツ人、トーステン・ロイブルはトヨタとレバンガでHCを務め、両軍での折茂を知る。ロイブルは、北海道での折茂のほうがより彼の本質的な部分を感じられたと話した。

 ロイブルがレバンガの指揮官を務めたのは11−12年のわずか1シーズンのみだったが、シーズン前の合宿初日での出来事でのことを鮮明に覚えている。

「稚内での合宿でした。我々は屋外で選手に厳しいランニングを課しました。ただ年齢のことや理事長の業務を担っていたこともあって、折茂にはランニングは半分でいいよ、と伝えたのです。すると彼は『コーチ、僕を特別扱いする必要はありませんよ』と言ってきたのです」

 一方、キャリア前半のトヨタ時代の折茂は、若かったこともあって“尖っていた”。折茂も自身を「自己中だった」と素直に認めている。その時の印象もあるだろうか、また実績を積み周りが“レジェンド”などと呼び始めたこともあって、近づきがたい存在になっていった。

言葉をオブラートに包もうとしなかった。

 換言すれば、折茂は誤解を受けやすい選手だった。引退会見の際、レバンガのチームメートから最後にビデオメッセージが贈られたが、若手の数人が入団時、折茂は「怖い人」だと思っていたと口にしている。

「もう、めちゃくちゃ言われますよ」

 折茂は笑いながらそこを認める。レラカムイ時代は、敗戦後に頭に血が上る彼の帰る先には「道ができていた」という。メディアの人間も後ずさりしたということだ。

 折茂はそんな時を「大人げなかった」と振り返った。だが一方で、自分を偽ることができないのもこの大選手のキャラクターだ。言葉をオブラートに包もうとしなかったところが、魅力だった。

 だから、思ったことを口にしてしまう。例えば、年々人気の上昇するBリーグについても「まだまだ」だと辛口だし、八村塁(ワシントン・ウィザーズ)ら傑出した選手のでてきた日本のバスケットボール全体についても「育成からしっかり選手を育ててそういう選手が単発で出てくるのではない」ようにしていかねばならない、と直言する。

 ここまではっきり物申すことができた選手は、そういない。折茂の言葉はいつも貴重だった。

「また、“ぶっちゃけトーク”しましょう」

 言葉に説得力があるのは、実業団とプロリーグで、苦労を重ねながら長いキャリアを送ってきたからこそだ。

 折茂は、自身の選手生活を振り返って北海道でチームをなかなか勝たせられなかったことを「やり残したこと」のひとつに挙げた。だが彼が北海道で取り組んできたことを見て、移籍してきたことが間違いだったと誰が言えようか。

 選手の肩書きは外れても「社長」のそれは残る。新型コロナウイルスによる影響も当然ある。重責だ。まだ北海道も、日本のバスケットボール界も彼を「求め」続けるだろう。
 われわれ報じる側も、そうだ。

「また、“ぶっちゃけトーク”しましょう」

 そんなこちらの気持ちを汲んでか、柔和な笑顔で折茂はそう言ってくれた。

 今後も、その言葉に甘えたい。

文=永塚和志

photograph by KYODO