「いやあ、鳥肌が立ちます。この将棋は、善悪を超えた芸術作品だと思います」

 6月4日、将棋の8大タイトルの1つである棋聖戦の挑戦者決定戦で、藤井聡太七段(17)が永瀬拓矢二冠(27)を破り、タイトル初挑戦を決めた。

 終盤の入り口で、藤井が指した62手目「2七銀成」という一手に対し、解説していた飯島栄治七段は感に堪えぬ口調で冒頭の言葉を発した。注目の対局だっただけに、一般のワイドショーなどでもこの発言は取り上げられた。

 藤井はそれから4日後に行われた棋聖戦五番勝負の第1局で渡辺明棋聖(36・他に棋王と王将も保持する三冠)との157手の大熱戦を制した。

 シリーズであと2勝すれば、屋敷伸之九段(48)の持つ18歳6カ月という最年少タイトル獲得記録を大きく更新する事になる。

渡辺は現在の将棋界で最強と目される。

 史上5人目の中学生プロ棋士としてデビューすると、無敗のまま29連勝を飾り、全棋士参加棋戦である朝日杯将棋オープン戦2連覇。

 さらに名人挑戦に繋がる順位戦ではデビュー時のC級2組からB級2組へと出世し、着実に王者への道のりを歩んできた藤井。

 今回は満を持してのタイトル初挑戦である。

 一方で初戦を落としたものの、迎え撃つ渡辺は現在の将棋界で最強と目される棋士だ。

「藤井将棋」を“芸術”と評した飯島は、実は渡辺とはプロ入り(四段昇段)が同期だ。

 2年前に渡辺が静岡市で行われた順位戦最終局で敗れ、A級から陥落した翌朝のこと。解説の仕事で現地に滞在していた飯島は渡辺と観光に出かけ、早咲きの河津桜を眺めながらビールを呑み、「戦友」の傷を癒した事もあった。

「本当に芸術作品のような将棋を指しています」

 飯島は藤井とも奇縁がある。藤井がまだ三段だった中学生時代、師匠の杉本昌隆八段(51)に連れられて東京で棋士たちと「武者修行」を行った。その時の対局者の一人が飯島である。

 飯島が振り返る。

「あの頃、藤井君は愛知県に天才少年現る、と既に有名な存在だったので是非盤を挟んでみたいと思っていました。

 あれはもう4年前になりますか。当時から終盤の読みの精度は高かったですが、まだ序盤が粗くて、追い込んで勝つタイプだなという印象がありました。

 今は全く違います。洗練されているし、永瀬戦の解説でも言った通り、本当に芸術作品のような将棋を指しています」

「藤井さんは全部の駒を綺麗に使う」

 飯島が言う“芸術性”とは何か。

「将棋は9×9の81マスを舞台に、2人で40枚の駒を使って戦うゲームですが、プロ棋士でも、全てのマスと駒を有効に使いきれない人は実は結構いるんです。

 藤井さんは全部の駒を綺麗に使う。永瀬戦の『2七銀成』という手は正にその象徴です。

 指し手の事になるので将棋に詳しくない方にとっては難しいかも知れませんが、相手の防御が行き届いてるところを敢えて攻めていく一手でした。一目、筋が悪く見える為に普通のプロはまず指さない、いや、指せない手です」

 飯島が藤井の将棋に「芸術性」を感じるのは、もう1つ理由があると言う。

「終盤の正確さです。勝ちがあったら逃さない。詰みがあったら必ず詰ます。だから藤井さんの将棋は美しいんです。

 形勢が有利になったらそのまま一気に持っていきますから。僕のような先行逃げ切りを狙うタイプは、先行に失敗するとダラダラ指してしまいがちですから、本当に羨ましい(笑)」

鬼気迫る“王手ラッシュ”をかいくぐった。

 プロでも頭を悩ませる難問が続出する「詰将棋解答選手権」で、小学6年生から5連覇中の藤井にとって、「詰む・詰まない」の見極めは得意中の得意。

「昨秋、山梨県甲府市で将棋イベントがあり、渡辺さんや永瀬さんなど錚々たるメンバーが集まったんですが、その時に藤井さんが控室で『こういうのあるんですけど』と言って、布の盤に自作の詰将棋を並べたんです。

 棋士たちはみんな目の色を変えて解こうとしました。僕は恥ずかしいんですが解けなくて、『宿題にします』といって場を離れました。一日かかりましたね、解くまでに。17手詰めくらいでした。藤井さんの詰将棋の才能は別格です」

 渡辺との棋聖戦第1局の最終盤でも、渡辺の鬼気迫る16手連続の“王手ラッシュ”を見事にかいくぐって勝ち切った。

フェルメールや印象派の絵を観ているかのよう。

 飯島は、藤井の将棋を解説しながらかつてない感覚に捉われたと言う。

「彼の将棋を、ずっと見ていたいなと感じたんです。将棋はいつか必ず終わります。僕は野球やゴルフも大好きなんですが、どれだけの名勝負でも、延長戦やプレーオフがあっても、やがて必ず決着はついてしまいますよね。でも永瀬さんや渡辺さんとの対局は終わって欲しくなかった。

 美術館でフェルメールや印象派の絵を観ている時と同じような感覚です。『このまま長く観ていたいな』っていう……。

 対局者は、共同作業で最高の棋譜を残したと思います」

 タイトルに片手がかかっている藤井。このまま戴冠し、かつての羽生善治九段(49)のように「一人勝ち」の時代を築くのだろうか。

「羽生マジック」と呼ばれる妙手を繰り出す。

「可能性は大いにあります。渡辺さんが第1局で、王手に対して2一玉と逃げた局面がありましたが、普通なら3一玉が第一感なんです。渡辺さんは、3一玉だと藤井さんが何か用意があるのでは、と疑心暗鬼になったのではないでしょうか。

 相手に自分の力を信用させる、というのは勝負において非常に重要なんです。

 例えば往年の羽生さんは苦しい局面から『羽生マジック』と呼ばれる妙手を繰り出して何度も逆転勝ちしてきました。対局相手もそれを重々知っているから、読みにない手を指されて動揺してしまう訳です。

 百戦錬磨の渡辺さんは、羽生さんとも何度も壮絶なタイトル戦を戦い、相手を信用しすぎる事の危うさを良く知っているはず。これは本人に確認しないと分かりませんが、僕の目には、その渡辺さんでも藤井さんの終盤力を恐れすぎたように見えました」

世間は空気を一新する出来事を望んでいる?

 最後に飯島は、藤井と「時代性」について語った。

「巨人・大鵬・卵焼きという言葉があったように、スポーツや大衆芸能には、その時々の時代を象徴するようなスターが出現する事が多々あると思うんです。

 新型コロナで閉塞感が強い今、世の中の人は『藤井君がチャンピオンになるところを観たい』と、空気を一新するような出来事を望んでいるのではないでしょうか。

 渡辺さんにとってはアゲンストだと思う。ただ、彼はヒールが似合います(笑)。かつて羽生さんと、勝った方が初代永世竜王という大一番を戦った時も、“羽生ノリ”の予想に対して将棋界初の3連敗からの4連勝という離れ業を演じた事もありました。

 やすやすと藤井さんに負けるとは思えません。いずれにせよ、令和を代表する名勝負になる事は間違いないです」

 棋界の歴史が今、大きく動こうとしている。

文=中村徹

photograph by KYODO