『フランス・フットボール』誌4月21日発売号はメキシコワールドカップ特集である。ディエゴ・マラドーナの大会と言われた1986年ではない。ペレのブラジルが3度目の優勝を果たし、ジュールリメ杯を永久保持することになった1970年の大会である。同誌はこの大会こそ「史上最高のワールドカップ」であったとしている。

 大会の雰囲気と熱狂、名勝負の数々と記憶に残る様々なシーン、そして輝くばかりのブラジル代表……。それらのすべてがカラー衛星中継ではじめてヨーロッパに伝えられたのもこの大会だった。日本でも「三菱ダイヤモンドサッカー」が、1年以上かけて全試合を録画放送した。

 そのメキシコワールドカップを、イタリアとブラジルのふたりの当事者、アレッサンドロ・マッツォーラとトスタンがビデオ対談で振り返っている。若い読者の方はピンとこないかも知れないが、恐らくはFF誌にしか発想も実現もできない、ちょっと驚きの企画である。

 父親は《グランデ・トリノ》のキャプテンで、《偉大なバレンチノ》と呼ばれたバレンチノ・マッツォーラ。インテル・ミラノがチャンピオンズカップ(現在のCL)2連覇を達成した当時はエースストライカーだったマッツォーラはこのとき27歳。ゲームメイカーにポジションを下げ、もうひとりのゲームメイカーで'69年のバロンドール受賞者であったジャンニ・リベラとの間で、いったいどちらを起用すべきかという深刻な論争をイタリアで引き起こしていた。

 一方のトスタンは、ジーコ出現以前に《白いペレ》と呼ばれた最初の選手だった。19歳で'66年イングランドワールドカップに出場し、23歳で迎えたこの大会では、ペレ、ジャイルジーニョ、ジェルソン、リベリーノら華麗な攻撃陣のつなぎ役としてインテリジェンスに溢れたプレーで世界を唸らせた。その後は目を負傷して'73年に引退。27歳の最盛期で迎えるはずだった'74年西ドイツワールドカップに出場できなかったのは、返す返すも残念なことだった。

 対談を読んで思うのは、両チームの大会へのアプローチの違いである。ブラジルはフィジカルを強化し、イタリアはプレーをブラジル化することでメキシコの高地に対応した。それだけでも興味深いうえに、ふたりの口から溢れ出るのはこれまで私たちがほとんど知らなかった事実の数々であった。ふたりが語る50年目の真実を、存分に味わってほしい。

監修:田村修一

ブラジルの準備は革命的だった。

 1970年メキシコワールドカップ決勝から50年後の今、ふたりの主役のバーチャル対談が実現した。アレッサンドロ・マッツォーラ(77歳、元イタリア代表)とトスタン(73歳、元ブラジル代表)が夢の大会を振り返る。

――トスタン、大会直前の監督交代(選手を掌握しきれなかったジョアン・サルダーニャが更迭され、マリオ・ザガロが新監督に就任)はブラジルのワールドカップ準備にどんな影響を与えましたか?

トスタン(以下T):準備プログラムには何の変化もなかった。われわれはプラン通りに行動した。ブラジルで3カ月合宿をおこない、グアダラハラ(メキシコ)で21日間の高地トレーニングを実施した。現地のコンディションに適応するためのプランだった。同様にフィジカルトレーニングも集中的におこなった。

 1966年の惨敗(ブラジルは3連覇を目指したイングランドワールドカップで、1勝2敗でグループリーグ敗退)の後は、シュートの練習にも力を注いだ。まるで軍隊のように、厳しい練習を規律正しくこなした。コウチーニョ(=クラウディオ・コウチーニョ。後のブラジル代表監督。1978年アルゼンチンワールドカップで3位入賞)とパレイラ(=カルロス・アルベルト・パレイラ。後にブラジル代表を率いて1994年アメリカワールドカップ優勝)のふたりのフィジカルコーチが、私たち選手を徹底的に追い込んだ。

 それがあったからこそ、私たちの準備は革命的であったと言いたい。ブラジルがこれだけ集中的にフィジカルを鍛えるのはかつてないことだった。最終的にブラジルは、他のどの国よりもメキシコの高地に適応したんだ。

ショートパスを繋ぐブラジル流に。

――アレッサンドロ、あなたの場合は準備はどうでしたか?

マッツォーラ(以下M):1967年にインテル・ミラノがメキシコ遠征をおこなった際に、標高2500mのトルーカで試合をしてフィジカルを激しく消耗した。10m走ると、その後2〜3分休まなければプレーを続けられなかった。

 大会数日前におこなわれた最後のテストマッチ(対ポルトガル戦)で、私はスタメンから外された。後半に交代でピッチに入ったとき、チームメイトたちに「《ブラジル流》のショートパスを数多く繋ぐスタイルで落ち着いてプレーしよう」と伝えた。彼らは私を見て奇妙な顔をしたが、そのやり方はとてもうまくいった。ロングボールと素早いカウンターアタックをベースにしたイタリアスタイルを放棄して、ブラジル流が私たちの新しいスタイルになった。

ペレとの連携をテストした結果。

――トスタン、あなたも大会開始前の時点ではスタメンではありませんでした。

T :ザガロ(=マリオ・ザガロ。選手として2度、監督として1度、アシスタントコーチとして1度ワールドカップ優勝。監督では準優勝も1度ある)はサルダーニャよりずっと慎重な性格だった。サルダーニャは攻撃サッカーの信奉者で、南米予選でブラジルは爆発的な攻撃力を発揮した。前線にはふたりのウィング、ジャイルジーニョとエドゥを両サイドに置き、ペレと私が中央に構えた。

 ところがザガロが赴任して、彼は「4-2-4はワールドカップで勝つために適したシステムではない。ペレと私(トスタン)を一緒にプレーさせることはできない」と言った。それで私はサブに回らざるを得なかった(微笑)。さらに彼はエドゥも外して、中盤にリベリーノ、クロドアウド、ジェルソンのトリオを配した。マークをより強固にするのがその意図だった。さらにボタフォゴ出身のザガロは、ジャイルジーニョとロベルトのボタフォゴコンビをペレと組ませようとした。

 だが、このやり方はペレとジェルソンの間でオートマティズムが得られず、ザガロは私を投入してペレとの連携をテストした。幸いそれがうまくいったので、私は開幕をスタメンで迎えることができた。

「ピッチで何かやってやろう」

――そればかりかグループリーグ2戦目のイングランド戦(1対0でブラジルの勝利。グループリーグ最高の試合がこのブラジル対イングランド戦だった)では、優勝候補を相手に決定的な仕事をしました。

T:イングランドは本当に素晴らしいチームで、4年前の優勝メンバーをほぼそのまま揃えていた。戦術的によく組織されており、4-4-2システムは彼らが作り出した。コンパクトで崩すのが難しいシステムだ。

 試合は長い間拮抗した。スペースがあまりなく、最終的にゴールは私のプレーが起点となって生まれた。左サイドで2〜3人を相手にドリブルをしてペレにパスしたボールが、(誰もがペレがシュートすると予想したのに)ジャイルジーニョにわたって得点になった。

 ほとんど誰も知らないことだが、このゴールの前にベンチに目をやると、ロベルトが私の代わりに出場する準備をしていた。それを見て、個人プレーをする気になった。「ピッチを離れる前に、何かやってやろう」と。そして神のおかげで私はサイドを崩すことに成功し、ジャイルジーニョのゴールへと繋がった!

 ただ、それでも私は交代させられた。交代要求は得点の前になされていたからだ。とはいえゴールは私にとって大きな救いになった。あのときからザガロは、私を無視できないレギュラーと見なすようになったのだから(笑)。

帰国便のチケットを買っただと!?

――イタリアのグループリーグはずっと厳しく、初戦でスウェーデンを1対0で下した後は、ウルグアイ、イスラエル相手にいずれも無得点の引き分けでした。

M:メキシコの気候条件に適応するのに時間がかかった。とりわけエースのルイジ・リーバ(《イタリアの太陽》と呼ばれた戦後イタリア最高のストライカー)が他の選手よりも苦しんだ。というのも長い距離を走るのが彼のプレースタイルだったからだ。40mをドリブルした後でペナルティエリアでいったん止まり、そこからさらに相手に向かって仕掛けていく。リーバはそんな選手だった。

 監督に「ブラジルスタイルでプレーしろ」と言われたとき、「テクニックがずっと上のブラジルのマネなどとてもできない」と、多くの選手が笑い出した(強固な守備システム《カテナチオ》から素早いカウンターアタックを仕掛けるのがイタリアのスタイルだった)。だが、試合では次第に練習通りのプレーが実現できるようになった。

 もうひとつ、起爆剤となることがあった。チームメイトのひとりが、チーム役員たちがグループリーグ終了直後のイタリアへの帰国便のチケットを買ったという話を聞いた。選手たちは騒然として「いったいどういうことか、どうすべきか」を話し合った。なかには役員を呼び出して殴りつけようと言い出すものもいた。結局のところ、何も知らないことにしようという結論になった。だが、イスラエル戦に引き分けて準々決勝進出が決まったとき、ロッカールームで役員たちを待ち受けて、思い切り罵倒してやった(笑)。それがグループの結束を固めた。

ブラジルスタイルが成功して。

――準々決勝の相手は地元メキシコで、場所はトルーカでした。

M:いくつかのチームが高度に苦しんでいるのはわかっていた。それを横目で見ながら、「全員がもっと効率よくやれる方法があるのでは?」と考えていた。ただ、メキシコ戦は、高地への順応の時間があったので、フィジカルの違いは問題にならなかった。

 だがスタジアムに到着した瞬間から別の苦しみが始まった。ロッカールームの中からでも、10万人(実際には約2.7万人)の大観衆が床を踏みつける音が聞こえた。誰もが不安に駆られた。

「マンマミーア、これからいったいどうなるんだ!?」と。

 だから試合のスタートはとても慎重だった。ブラジルスタイルでボールをキープしながら後方で回し続けた。それはうまくいき、やがて少しずつ攻めに転じて最終的に4対1で相手を下した。
(以下続く)

文=エリック・フロジオ,ヴァレンティン・パウルッツィ

photograph by L'Equipe