トスタン自身が2得点を決めたブラジルのペルーとの準々決勝。《世紀の試合》、ワールドカップ史上最高の名勝負と、今日まで評判の高い準決勝のイタリア対西ドイツ戦。そしてブラジルの攻撃サッカーが後半炸裂し、有終の美を飾った決勝戦……。アレッサンドロ・マッツォーラとトスタン、ふたりの話はさらに続く。

監修:田村修一

誇らしいのはアシストの数々。

――トスタン、ブラジルの準々決勝はペルーが相手で、内容的にも楽勝でした。あなた自身も2得点をあげましたが、これはあなたがこの大会で得点を決めた唯一の試合でもあります。

トスタン(以下T):この大会を通して私の役割はアタッカー兼ゲームメイカーで、ペレとジャイルジーニョの仕事をしやすくすることだった。つまり得点は私の仕事ではなかった。だが、アタッカーが得点せずには許されない。だから相手のゴールをこじ開けて、チームが準決勝に進む手助けができたことに満足している。でもこの2ゴールは、今はもうほとんど誰も覚えていないだろう。記憶に残っているのはイングランド戦での(ジャイルジーニョの決勝点に繋がった)ペレへのパスであり、ウルグアイ戦でのクロドアウドとジャイルジーニョのゴールに結びついたパスだろうと思う。

――では、得点を決めた感慨はさほど強くはなかったのですか?

T:得点よりもアシストの数々を誇らしく感じている。パスのほうが難しかったからだ。精度が求められ、チームにとっても貴重だった。

 所属するクルゼイロでは、私はペレのようにプレーしていた。少し後ろから攻め上がってフィニッシュを決める。だが、セレソンでは、私は自分の慣れたエリアでのプレーができなかった。常に前でプレーすることに順応しなければならず、相手ディフェンダーに常に監視されている囚人のような気分だった。プレーのためのスペースはかなり限られていて、決定的な仕事もあまりできなかった。ただ、そうして機能したことが、しばしば素晴らしい結果を生み出したのは幸いだった。

心が震えた。あんな試合は他にない。

――アレッサンドロ、準決勝の西ドイツ戦は《世紀の試合》といわれ、延長戦の間に5ゴールが記録されました。この伝説の試合にはどんな思いがありますか?

マッツォーラ(以下M):監督(=フェルキオ・バルカレッジ。地元開催のEURO'68でイタリアを優勝に導いた)は私とジャンニ・リベラが交代で出場するシステムを確立した。私が前半をプレーし、リベラが後半に入るやり方だ。これにはふたりとも苦しんだ。その点でイタリアは特別だった。ブラジルならば5人の10番をピッチに並べるのに、イタリアはふたりですら一緒にプレーさせないからだ。

 西ドイツ戦も私は前半でピッチを離れ、イタリアは1対0でリードしていた。そしてアディショナルタイムで西ドイツが同点に追いつくまで、憂鬱さがつのる試合内容だった。一転して興奮のるつぼと化した延長戦も、私はベンチから眺めていた。二転三転する展開に、まるでジェットコースターのように感情の起伏が激しく、感極まったかと思えばどん底にたたきつけられる。そして再び心が震える……。あんな試合は後にも先にも他にない。あの晩(この大会は、ヨーロッパのテレビ中継に合わせてキックオフは正午か午後4時かのどちらかであった。イタリア対西ドイツは4時キックオフ)、誰もが無我夢中だった。もちろんそのときは、自分たちが歴史を刻んだとは思ってもいなかったが……。

誰もがマラカナの悲劇しか語らない。

――ウルグアイとの準決勝の前、1950年のマラカナの悲劇(地元開催のワールドカップでブラジルは、決勝リーグ最終戦=事実上の決勝戦で、20万人の大観衆の前でウルグアイに2対1と逆転負けを喫し優勝を逃した)のプレッシャーを感じていましたか?

T:試合前日の記者たちの質問は、すべてそのことだった。あれから20年もたっているのに、誰もが1950年ワールドカップのことしか語らない。それでイラつくことはなかったが、少々うんざりしていたのは事実だった。同じ過ちを犯してはならないという警戒心とモチベーションが高まったのも間違いない。

――決勝に向けてはどんな準備をしましたか?

T:試合前日のミーティングで、戦術プランが決められた。フィジカルコーチであると同時に対戦相手のスカウトでもあったパレイラが、イタリアと西ドイツの準決勝を視察していた。彼が指摘するには、イタリアはマンツーマンマークでその後ろにリベロを置く。だからわれわれはふたつの戦略を用意した。

 ひとつ目は、ジャイルジーニョがいつものように右サイドから中央に侵入していったとき、ファケッティもつられて一緒に動くから、その空いたスペースをカルロス・アルベルトが後方から攻め上がって利用できる。決勝の4点目がまさにその動きから生まれた。

 ふたつ目は、私が4人のディフェンダーとリベロの間にポジションをとることだった。両者の注意を私に引きつけることで隙が生じる。ジェルソンの2点目がまさにそうだった。ベルティニがケアすべき位置にいたのに、私に気を取られて対応ができなかった。

 つまりブラジルは、戦術的にも準備万全だった。それだけよく適応していたということだ。

イタリアは後半砕け散るだろう。

M:準決勝では消耗しつくした。疲れ切ったうえに、2000m以上の高地でのプレーを強いられた。対してブラジルはずっと海抜の低いところで戦ってきたことにも苛立っていた。ブラジルは実力で上回っているうえに、常に有利になるように護られているという思いが私たちにはあった(ブラジルは初戦から準決勝までをすべてグアダラハラで戦った。その有利はあったものの、グアダラハラは海抜約1500mで低地ではない。海抜が低いというのはマッツォーラの誤解と思われる)。

 バルカレッジは準決勝と同じスタメンで決勝に臨んだ。いずれにせよスタメンを変更するのは得策ではなかった。サブのメンバーたちはさほど熱心に練習に取り組まず、気持ちもちょっと離れていたからだ。

――前半は拮抗していたのに対し、後半はブラジルが圧倒的に支配しました。どうしてそうなったのでしょうか?

T:まずフィジカルの差が違いを作り出したと思う。その点でブラジルは最もよく準備していたチームだった。ペレ、ジェルソン、ジャイルジーニョ……、イタリアはすべての選手にマンツーマンでマークをつけた。それだけでも疲労の度合いは大きかったはずだ。

 ハーフタイムに私たちは、イタリアが後半も同じリズムを維持するのは難しいと見ていた。前半ですでに疲弊していたからだ。

「彼らはもう死んでいる。すぐに砕け散るだろう。後半は前半よりずっといい試合になるハズだ」と、ロッカールームで話し合っていた。

スパイクの紐をほどいていたら。

 実際、その通りのことがピッチで起こった。

M:私はこれまで同様に、決勝も前半だけで交代だと思っていた。だからハーフタイムには、スパイクの紐をほどき始めていた。するとバルカレッジが大声でこう叫んだ。

「お前は何をやってるんだ! アホか。ピッチに戻るんだ!」と。

 だが、私たちの脚はすぐに止まってしまった。ブラジルの2点目の後は疲弊して立ち直れず、試合は実質1時間で終わってしまった。監督がリベラを投入したのは試合の最終盤、84分になってのことだった。この交代が試合の何かを変えたとは私には思えない。たしかにブラジルには、私たちよりずっと瑞々しい体力があった。

――試合終了のホイッスルが鳴ると同時に群衆がピッチに乱入し、あなた(トスタン)は揉みくちゃにされました。

T:気がついたらパンツ1枚になっていた(笑)。彼らは私のシャツを奪い、ショーツを奪い、スパイクまで奪い去った。パンツまで奪いかねない勢いだった。丸裸にされるのではと本気で心配したよ。感激にひたりたいのにパニックに陥った。警官が私を群衆から救い出し、護ってくれたんだ。

ブラジル史上最強チームと称えられ。

――それでは史上最も素晴らしいワールドカップに参加したという思いはありますか?

T:勝者であるわれわれにとっては、もちろん歴史上最も素晴らしい大会だ(笑)。イタリアを相手にあのスコア(4対1)で勝ったんだ。多くの人々がブラジル史上最強チームと讃えてくれた。そうした称賛は、私たちにとって光栄だった。

 私たちのチームは個人の輝きと、集団のスペクタクルの両方を兼ね備えていた。ブラジルの人々は、これだけのチームなら監督はいらないとまで言っていた。それは言い過ぎにしても……、私が今も思うのは、あのブラジル代表が革命的なチームであったこと――強固でコンパクトな守備と、カウンターアタックまで仕掛けることのできるチームであったことだ。そして戴冠するために、徹底的にフィジカルを鍛えぬいた。すべての要素がうまく結合したんだ。

史上最も素晴らしいW杯に参加した。

M:つい最近、当時のチームメイトたちと会ったときに誰もがこう言った。

「私たちは史上最も素晴らしいワールドカップに参加した」と。

 たしかに主役が際立った大会ではあったが、それだけでもなかった。私たちはバルカレッジに隠れて多くの試合のビデオを見た。彼は選手がビデオを見ることをよく思ってはいなかったが、私たちは様々なチームがレベルを上げ進化していることに素直に驚いた。

 特に記憶に残っているのは西ドイツとイングランドの準々決勝だ(延長の末、3対2で西ドイツの勝利)。本当に凄い試合だった。他にもソビエト連邦やベルギー、スウェーデンも印象に残っている。

――帰国はどんな感じでしたか?

M:飛行機が着陸したとき、多くの群衆が空港に詰めかけているのがわかった。私たちはサポーターが祝福のために集まったのだと思った。だが、警官の警備のものものしさを見て、そうではないことにがすぐにわかった。彼らは私たちを罵倒するために集まったのだった。

 イタリアは、1938年以来ワールドカップで決勝に進んだことはなかった。なのにそんなことになるのは、イタリア人が他と少し違うんだというのがわかるだろう。

栄光の瞬間、キャリアの頂点。

――ブラジル、リオへの凱旋は、結果的にエミリオ・ガラスタズ・メディシ軍事政権を強化することにもなりました。不快だったのではありませんか?

T:その通りだが、私たちの喜びを損なうほどではなかった。私は独裁には反対で、幾度も署名をおこなっていた。ブラジルという国が歴史上難しい局面を迎えているのはわかっていたが、私たちはワールドカップに集中した。そして私やほとんどのチームメイトにとって、そのときは栄光の瞬間であり、キャリアの頂点でもあった。

 帰国した当初は、軍事政権に祝ってもらうためにブラジリア(首都)に行くのは嫌だと考えていた。しかしそう思っているのは私だけだという現実があり、譲歩せざるを得なかった。人々の心のなかでは、スポーツと政治はまったく別のものであるという思いがあり、私もそれを認める以外にはなかった。

――ふたりとも今日はどうもありがとうございました。

文=エリック・フロジオ,ヴァレンティン・パウルッツィ

photograph by L'Equipe