鳴り物入りでプロデビューしたルーキーとの初対決は、常勝ライオンズが誇る2人の主砲に大きな衝撃を与えた。ストレートか、フォークか。三振か、ホームランか。記録を超えた、潔いほどの果たし合い。勝っても負けても、彼らはなぜ、野茂英雄に惹きつけられたのか――。
初出:「Sports Graphic Number 1009号」(2020年8月20日発売)<AK砲が明かす真剣勝負の舞台裏>清原和博&秋山幸二「2分の1のスリルと100%の純情」(肩書等すべて当時)

 西陽に照らされた藤井寺球場は、いつもより空席が目立たなかった。

 1990年4月10日、平日の夕刻から駆けつけた人々の目当ては、これがプロデビュー戦となるルーキー野茂英雄であった。

《こういうことか……。このピッチャーとはそういう巡り合わせなんやな》

 1回表、西武ライオンズの4番、清原和博は半ば呆れながら打席に立った。

 ノーアウト満塁。そんな状況で初対決を迎えることが、野茂との避けることのできない因縁のように感じられたのだ。

 野茂を知ったのは2年前だった。遠征先のホテルでテレビをつけると、ソウルオリンピックの決勝戦が映っていた。画面の真ん中には、アメリカ代表の大男たちを相手にストレート勝負で立ち向かう投手がいた。

《アメリカを相手に力勝負しとる。大阪にこんなピッチャー、おったんか……》

「頼むから、セ・リーグに行ってくれ」

 経歴を見ると1歳下で、野球では無名の成城工業高校の出身だった。清原がPL学園3年の夏、大阪大会2回戦で完全試合をしていたのだという。清原はそのことをまったく知らなかったが、投球フォームも、打者に向かっていく気持ちも、他の投手と一線を画したその姿が強く印象に残った。

 だから翌年のドラフト会議、野茂が史上最多8球団から1位指名を受けると、清原は中継画面に向かって祈った。

《頼むから、セ・リーグに行ってくれ――》

 高卒1年目から毎年のように30本塁打を放ち、プロで4年を過ごした清原はすでにパ・リーグの顔だった。あらゆる投手が躍起になって清原を抑えにかかってきていた。ぶつけても構わないというように顔のあたりに速球を投げ込まれることもざらだった。おかげで、リーグで最も多くの死球を受けていた。それでも常勝ライオンズの4番として責任を果たさなければならない。そんな状況で腕に覚えのある投手がまたひとり増えることは、清原にとって、とても歓迎できることではなかったのだ。

 だが、野茂の交渉権を引き当てたのは優勝争いのライバル、近鉄の仰木彬だった。

野茂のリリースポイントが見えなかった

《よりによって近鉄か……》

 その憂鬱は、いざ野茂と初対決の打席に立っても清原の心に変わらずあった。

 2つの四球、自らの失策。満塁で清原。ルーキーがいきなり迎えた試練に藤井寺は騒然としていた。ただ清原には追い込まれているはずの野茂が異様に大きく見えた。

《こんなにデカかったんか……》

 野茂は打席の清原に正対すると、まるでランナーなどいないかのように思い切り体を捻って、伸び伸びと腕を振ってきた。

 清原には一度隠れてから突然出てくる野茂のリリースポイントが見えなかった。白球があっという間に眼前に迫ってきた。

 ふとバックスクリーンのスピードガンに目をやると、それまでよりも数字が跳ね上がっていた。清原はそれを見て、野茂がどんな投手であるかを直感的に理解した。

《フォークは考えなくていい。ストレート一本で振ろう》

 ただ、狙ったはずの直球にバットは空を切った。空振り三振。なぜ当たらなかったのか。清原はまじまじとバットを見た。

 清原の頭には、その後の3打席――センター前ヒット1本――のことも、チームが勝ったのか負けたのかということも残らなかった。あの最初の、妙に清々しい三振だけが刻まれていた。気づけば憂鬱はどこかへ消えていて、次の野茂との対戦はいつだろう、と考えている自分がいた。

新聞と秋山幸二の本音は違った

『フォークばっかり。もっとストレートでくると思ったよ』

 秋山幸二は野茂との初対戦を終えた後、番記者たちに向けて、苦笑いをつくった。

『リーグを代表するホームランバッターが、真っ向勝負してこない新人に拍子抜け』

 メディアも世間も発言の真意をそうとらえた。事実、翌日の新聞には秋山のこのコメントが見出し付きで掲載された。

 ただ、秋山の本音は違った。初めて見た野茂のボールに衝撃を受けていた。

なんとか直球勝負の土俵に引きずり込みたかった

 野茂の球種はストレートとフォークの2つだけだったが、その見分けがつかないのだ。当時、フォークボールを投げるピッチャーは他にもいたが、必ずボールに横回転がかかっていた。コンマ数秒の中、秋山はそれを目印に球種を見分けることができた。

 ただ野茂は、見たこともない高いリリースポイントから純粋な縦回転のボールを投げ下ろしてきた。ストレートもフォークも同じ軌道、同じ回転のため判別できなかった。

《真っすぐとフォークしかないのに……その2分の1がやたらと打ちにくい》

 ストレートに絶対的な自信があった秋山は、なんとか直球勝負の土俵に引きずり込みたかった。だからあえて、野茂のプライドを刺激するコメントを放ったのだ。

《どうすれば、あのフォークを見極められるだろうか……》

 試合は西武が5−2で勝ち、王者がルーキーに洗礼を浴びせた形となったが、秋山の胸には、これから続く野茂との戦いへ強い危機感があった。

とにかく、野茂からホームランが打ちたい…

 野茂は4月末に日本タイ記録となる17奪三振で初勝利を手にすると、前半戦だけで10勝を挙げた。近鉄の指揮官、仰木は新人ながらエース格になった野茂を西武にぶつけてきた。前年、近鉄にリーグ5連覇を阻まれた王者としては、それを受けて立ち、叩いておく必要があった。

 だから野茂が投げる試合の前、西武のミーティングはとりわけ長かった。洞察力に長けたコーチ、伊原春樹が選手たちを前にして野茂のクセを解析するのだ。『野茂が体を捻ってグラブを高く掲げたとき、背中の横から右の手首が見える。その手首の角度によってストレートか、フォークか判別できるはずだ』

 オールスター前まで15打数2安打、7三振、打率.133と抑え込まれていた秋山にとっては悩みを解消するヒントであった。ただ、なぜか取り入れようという気にはならなかった。清原も同じ気持ちだったのだろう。西武の4番バッターは、そのミーティング中、居眠りをしていた。

《打席に立ってそこを見ていたら、ヒットは打てるかもしれないが、おそらくホームランは打てないだろう。俺はとにかく、野茂からホームランが打ちたい……》

 秋山はいつしかそう考えるようになっていた。野茂との対決はストレートかフォークか、ホームランか三振か、いつも2分の1の勝負だった。そこにゾクゾクする感覚があった。ホームランを打つためなら、空振りも三振も気にならない。50%という確率が、秋山を驚くほど大胆にさせてくれたのだ。そこまで割り切れる投手というのは他にはいなかった。対戦を重ねるにつれて、秋山は《野茂との勝負は2分の1のままでいい》と思うようになっていた。

「ノーヒットノーランは4番の恥や」

 なぜ、野茂というピッチャーに惹きつけられるのか。清原がその理由を知ったのは1994年の開幕戦だった。

 4月9日、西武球場。その日の野茂は手がつけられなかった。西武は8回までに12三振を奪われ、1本のヒットも打てなかった。ついにノーヒットノーランまであと3人と迫られた9回裏、先頭は清原だった。

《ノーヒットノーランは4番の恥や》

 清原はそう考えていた。8歳で野球を始めてから一度もその屈辱を味わったことはなかった。ベンチを出る前、清原は左手の白い手袋を締めなおした。プロ1年目はほとんど素手で打っていたが、この頃は薄い革手袋をするようになっていた。

 それは19歳で常勝球団の4番打者となった清原が、目の色を変えてくるパ・リーグの猛者たちと向き合うために必要な御守りのようなものでもあった。

 そしてとりわけ、野茂と対戦する日は手袋をきつく締めた。少しでもグリップに緩みがあれば、あの直球に力で負けてしまうような気がしたからだ。

フォークなら三振。それで良かった

 3点ビハインドの9回裏、打席に立った清原はマウンドの野茂とキャッチャーの光山英和を交互に見て、頭を巡らせた。

《記録を狙うなら全球フォークだ。だが、おそらく野茂はフォークを投げてこない》

 それは確信に近かった。あの初対戦の日から、野茂は清原に対して重要な局面になればなるほど、直球一本の勝負を挑んできた。捕手はフォークのサインを出しているはずだ。その証拠にマウンドで野茂が首を横に振ると例外なくストレートがきた。

『もうほんま……頼むわ』

 背後から光山の困り果てた声が聞こえてきたのは一度や二度ではない。野茂は捕手のサインにもベンチの指示にも逆らって、清原と真っ向勝負をしていた。だから清原もいつも100%直球だけを狙ってスイングした。フォークを打とうとは考えなかった。フォークなら三振。それで良かった。

 大記録を目前にしたスタジアムは張りつめたように静かだった。

 初球。野茂は渾身の直球を投げてきた。

《やっぱり……こんな場面でも真っすぐでくるんか》

 清原は胸が熱くなるのを感じた。

「これでは、野茂に申し訳ない」

 4球目。空に聳えるトルネードから放たれた直球を清原のバットがとらえた。視線の先で白球が右中間を割っていく。ツーベース。ノーヒットノーランの夢、潰える。スタジアムには痛快でたまらないという歓声がこだましていた。西武ベンチにも、解き放たれたような笑みが並んでいた。

 だが、その中で清原だけは二塁ベース上でどこかバツの悪そうな顔をしていた。

《あれはホームランにしなければいけなかった。そうでなきゃ……野茂に申し訳ない》

 相手からヒットを放ったのに、そんな気持ちになったのは初めてのことだった。

 清原が野茂と対戦したのは、そのシーズンが最後になった。

あれはまるでメジャーリーグの勝負だった

 1995年の5月。テレビ画面の向こうにはドジャーブルーのユニホームをまとった野茂がいた。秋山はそれを見ながら、誰も想像しなかった当たり前のことに、気づかされたような思いだった。

《ああ、日本人でもメジャーにいけるんだ。日本人でもやれるんだ。ひょっとしたら……俺もいけたかもしれないな》

 秋山はプロ2年目、アメリカのマイナーへ野球留学した頃からメジャーに憧れていた。ただレベルの違いや日本球界に移籍の制度がなかったことから現実の目標とは考えなかった。それを野茂は現実にした。

 もっとも、カリフォルニアの空に映えるトルネードに対して嫉妬や後悔を抱いたわけではない。西武からダイエーに移った秋山には目の前にやるべきことがあった。

 それに何より、秋山の胸には表か裏か、「2分の1」を巡る野茂とのゾクゾクするような勝負の感触がずっと残っていた。

《そういえば、あれはまるでメジャーリーグの力と力の勝負みたいだったな》

文=鈴木忠平

photograph by Masato Daito