飛田給――。これを「とびたきゅう」と迷いなく読める人は、地元住民か京王線ユーザーを除けば味の素スタジアムを訪れる際に降りたことがある人くらいなものだろう。言われてみれば何のヒネりもない読み方だが、初見ではいささか戸惑ってしまう、地味ながらも難読駅名のひとつなのではないかと思っている。

 この飛田給駅は前述のとおり、味の素スタジアムの最寄り駅である。JリーグではFC東京と東京ヴェルディ1969のホームスタジアム。昨年のラグビーW杯では開幕戦の日本対ロシア戦や準々決勝の日本対南アフリカ戦などが行われたのも記憶に新しい(あの熱狂、たった1年前とは思えないほど世の中は変わってしまいましたね……)。

飛田給駅、味の素スタジアム以外に何があるのか?

 ともあれ、味の素スタジアムは日常的にはJリーグの試合が行われ、国際的なスポーツイベントでもたびたびお目にかかる日本を代表するスタジアムのひとつである。アクセスは飛田給駅徒歩5分。駅前の目抜き通り(スタジアム通りというらしい)を歩いていけば甲州街道を渡る歩道橋にぶつかって、そのまま歩道橋からスタジアムのゲートへ。FC東京のサポーターのみならず飛田給駅に馴染みを感じているスポーツファンは少なくないだろう。

 ところが……である。こういう駅を訪れる機会はスポーツイベント開催時に限られる人が大半だろう。ほとんどの人は“ハレの日”の飛田給駅しか知らないわけだ。逆に言えば、スポーツイベントのない“いつもの”飛田給駅がどんな駅なのか、知っている人は少ないのではないか。というわけで、なんの変哲もないとある平日のお昼ごろ、飛田給駅を訪れてみた。

 飛田給駅は、京王線の調布駅よりふたつ西、甲州街道(国道20号)のごく近くにある小さな駅だ。イベント時には特急や準特急が臨時停車することが多いが、普段は急行や特急は停まらない。そのあたりからも、様相が一変する駅だということがわかる。実際、通勤通学の時間帯も過ぎたお昼頃になるとホームにはほとんどお客の姿はなく、イベント対応のための広々とした橋上駅舎のコンコースにも人影は少ない。この姿の飛田給駅しか知らなければ、施設の規模がなぜか過大のナゾの駅、と断じてしまうかもしれないほどだ。

 その“ナゾ感”、味の素スタジアムのある北口へ出ても変わらない。駅前の広場がこれまた広いのだ。なんだか無駄にスペースのある広場を囲むようにして、ファーストフード店にコンビニ。さらにスタジアム通り沿いにも居酒屋やファミレスが何軒も連なる。

 だいたいこうしたスタジアム近くの店となると、試合後に連れ合いと行こうと思っても満席が常。「すみませ〜ん、お待ちいただいて……一応2時間制なんですけど……」などと店員さんに申し訳なさそうな声で言われたりする。で、諦めてひとまず新宿まで出るか、となってしまう。そんな繁盛店も、平日のお昼のお客は少ないようだ。FC東京のフラッグはためくスタジアム通りからひとつ横道に入るといわゆる東京郊外の住宅地なのだから無理もない。

あの大手ゼネコンの研究所が……

 しかし、駅の周辺を少し歩いてみると、単にスタジアムだけの駅というわけでもないことがわかってきた。スタジアムとは反対側の南口のすぐ前には、大手ゼネコン・鹿島の技術研究所。1986年発行の『東京地名考』(朝日新聞社社会部編)の「飛田給」の項にもこの研究所の存在が書かれているので、それなりの歴史があるようだ。なんでも、日本初の超高層ビルとして名が轟く霞が関ビルディングもこの研究所で培った技術のおかげで建てられたのだという。霞が関ビルの竣工は1968年のことである。

 この鹿島の研究所で働く人のうちいくらかは、帰宅前に飛田給の居酒屋で1杯やることもあるのだろう。昼食にこのあたりのファミレスを利用する機会もあるに違いない。小さな町の飲食店もいくつかあり、日常的にある程度の需要があるだろうことも教えてくれる。

飛田給(とびたきゅう)の名前の由来は?

 とはいえ、飛田給駅の本質は東京郊外の住宅地の中の駅であるといっていい。飛田給駅が開業したのは1916年。古くは飛田給村と呼ばれた甲州街道沿いの小さな村の駅だった。難読の駅名の由来は奈良時代に荘園を管理していた飛田氏より与えられた給田がこの地にあったことからという説と、奈良時代に困窮者救済施設・悲田院の給田がこの地にあったことからという説があるようだが、確かなことはわからない。

 いずれにしても、街道筋の小さな村は鉄道開通・駅開業によって住宅地へと変貌をとげた。それでも当時はたくさんの人が降りるような名所などは持たない駅だった。現在の広々とした駅舎や駅前広場ができたのは2001年で、味の素スタジアム(当時は命名権売却前なので東京スタジアム)開業にあわせてリニューアルしたものだ。100年を超える飛田給駅の歴史の中で、多くの人が遠方からもやってくるようになったのはここ20年ほどのことなのである。

 駅の周辺を歩けば、しばらく前からありそうな住宅がちらほら。そうした人たちにとっては、突如としてスタジアムができて週末にはたくさんの人が乗り降りするようになったのだから、それはもうおったまげたことだろう。

1964年東京五輪と飛田給駅の“不思議な関係”とは?

 ところが、かつて一度、まだ小さな住宅地の駅に過ぎなかった飛田給駅が脚光を浴びたであろうできごとがあった。1964年、東京オリンピックである。半世紀と少し前のオリンピックのマラソン競技、折り返し地点がちょうど甲州街道の味の素スタジアムのあるあたり。つまり、飛田給駅から5分ほどの場所だった。裸足のアベベが靴を履いていることに沿道の観客が驚き、円谷幸吉が銅メダル。「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と遺書を残してこの世を去る3年と少し前の栄光だった。そんな、歴史に刻まれたイベントのひとつのハイライトシーンが飛田給駅のごく近くであったのだ。当時の沿道の観客の多くは近隣住民や招待された子どもたちだったようだが、中にはアベベをひと目見ようと飛田給駅から足を運んだ人もいたに違いない。

 その頃には味の素スタジアムなどもちろん影も形もない。現在のスタジアム周辺には関東村と呼ばれる米軍施設・住宅群があった。1941年に調布飛行場が設けられて主に陸軍に使用され、戦後は米軍が接収して調布基地となる(ユーミンの名曲『中央フリーウェイ』で“追い越す”調布基地はこれのことだ)。オリンピックに際してワシントンハイツが選手村になることで米軍関係者が移転してこちらに居を構えた、というのが大まかな歴史である。旧調布飛行場一帯は1973年に返還され、一部は飛行場として再開して現在も大島や新島に定期便が飛ぶ。残りは関東村跡地として長らくほったらかしだったが、味の素スタジアムなどのスポーツ施設や東京外国語大学、警視庁警察学校などに生まれ変わったのである。

 味の素スタジアムは来年に延期になった東京五輪でも、サッカーなどの会場になることが決まっている。半世紀前のオリンピックでもアベベと円谷が走った町だから、スポーツとの縁は深いものがある。戦後日本の成長を象徴する超高層ビル建設の技術を生み出した町という一面もある。こうした歩みを変わらずに見つめてきたのが、いまや、味の素スタジアムの玄関口として知名度を得た飛田給駅なのである。

(写真=鼠入昌史)

文=鼠入昌史

photograph by Masashi Soiri