93年のJリーグ開幕当時、ガンバ大阪の中心選手として、長髪をなびかせ華麗なプレーでファンを魅了した“天才”礒貝洋光。27年前の“Jリーグ開幕バブル”をいまどう振り返るのか? 東京都内で本人をインタビュー取材した。(全3回の2回目/#1、#3へ)

 高校時代から超高校級と称され、学生ながら91年に日本代表入りも果たしていた礒貝洋光。Jリーグ開幕を翌年に控えた92年に東海大を中退し、ガンバ大阪入りすることになったが、当時、彼のもとには多くのクラブからオファーがあったという。

「Jリーグは10クラブでスタートしたけど、オファーは12クラブからあったような感覚だった。いちばん最初に連絡をくれたのはグランパスの監督だった平木(隆三)さんで、ほかのクラブの話も聞こうと思い返事を保留にしていたら『うちと天秤にかけるのか!』と怒られたのを覚えてる。

 まだ携帯電話もない時代で、自宅や大学の黒電話でのやり取りだから、連絡も取りづらかった。競合したクラブが入札する制度とかあったらよかったんだけど。結局はガンバに決めたけど、釜本(邦茂)さんにステーキをご馳走になったら断れないでしょ(苦笑)」

 Jリーグ開幕に向けたプレ大会として92年にナビスコカップがスタートし、この年に高校や大学から入団した選手は、いわば日本リーグを経由せずにプロ入りした1期生といえた。もちろん、プロ野球のようなドラフトもなければ、いまのようにインターネットも発達していない。礒貝のような注目選手は、すべてのオファーを詳細に知る時間的な余裕もなく半ば強引にクラブに引き抜かれた面も否めなかったのだろう。

「金額を見たらお小遣いどころじゃなくて……」

 Jリーグ以前の日本サッカーといえば、毎年冬に国立競技場で行われた高校サッカー選手権の決勝が満員になった一方、トップリーグの「日本サッカーリーグ(JSL)」のスタンドは閑古鳥が鳴いていた。

 それが93年の開幕を機にスタンドはどの試合も一杯になり、それまで大学生だった選手や実業団で社業の傍らサッカーをやっていた選手が高額の年俸を手にするようになるなどすべてが一変する。

「不思議だった。学生時代はただのサッカーバカだった人たちが、サッカー選手がどういう職業かもよくわからないままに、“お小遣い”くれるからやってみるかという感じで。それも金額をみたらお小遣いどころじゃなくて、『もう少し真面目にやらないと』みたいな(笑)。おそらく多くの選手がそんな感じだったと思う」

空振りして笑ってる選手がいて“びっくり”

 93年5月にJリーグは開幕し、同年秋には日本代表がアジア最終予選であと一歩のところでW杯出場を逃す“ドーハの悲劇”に見舞われたものの、日本サッカーは空前のブームと化した。ただ、プロ化され大きなお金が動いたとしても選手の質が急に上がるわけではない。

「ガンバに入った頃は試合で空振りしても笑ってる選手がいて、びっくり(苦笑)。帝京高や東海大にも、そんな選手はいなかったから」

 そんな状況下、ケガも重なりモチベーションは低下し、礒貝のパフォーマンスは安定を欠いた。ガンバ大阪は93年が10クラブ中7位、94年が12クラブ中10位、95年が14クラブ中14位と低迷した。

 いまでは信じられないが、当時のJリーグは基本的に、水曜日と土曜日に試合が組まれ、90分で決着がつかなければVゴールでの延長戦、さらにPK戦で勝負をつけるというハードさだった。

「チヤホヤされ、女性との遊びも……」

 一度歯車が狂うと、修正する間もなく、次の試合がやってきた。

「恐ろしい流れでしょ。しかも、ホームでも試合前にチーム全員で前泊し、アウェイでは試合前、試合後と宿泊。だから、スケジュールはパンパン。一度シーズンが始まると、流れを変えるにはスーパーな外国人選手を呼ぶくらいしかできない」

 そして巷では、Jリーガーとして持てはやされ誘惑も少なくなかった。

「サッカー選手というだけでチヤホヤされ、食事の誘いなども多く、女性との遊びも……。それで、(Jリーグ入りまで拠点にしていた)東京まで遊びに行っちゃうとガンバの朝の練習に間に合わないと困ったり(苦笑)。

 ピッチでは連戦のなかケガをするのを嫌い、長距離移動のアウェイの帯同を免れようと“計画的に”イエローカードをもらったことも……。0-2とリードされたら逆転は難しい。無駄に体力を使いたくなかったので、60分を過ぎると次の試合に備えて自分から交代を申し出たこともあった。釜本さんに甘えていた部分があったのかもしれないけど、そんなのは僕だけだったかも」

「お金は1億でもあればすぐなくなった(笑)」

 たとえばヴェルディ川崎のカズ(三浦知良)やラモス瑠偉、武田修宏らは六本木のクラブなどに姿を見せることが、たびたび週刊誌やテレビのワイドショーで報じられていた。

「関西の僕らはクラブといっても、北新地のママのいるお店だから。僕はお酒は飲まないし、派手にやるのは好きじゃなかったから、基本はウーロン茶でキュっとやるだけ。でも、お金は1億でもあればすぐなくなった(笑)。ゴルフをやり出したのもその頃で、すぐに70台で回るようになっていた」

 忙しないスケジュールのなか、自身の性格を“せっかち”だという礒貝にはこんなこともあった。

「若い頃は、奇抜な髪形にしたくて美容院に行くんだけど、長い時間じっとしていられなくて。パーマをかけてロッドがまだ巻かれているのに『あとは自分でやるから』と帰っちゃったり。ときには頭にロッドを巻いたまま祇園の舞妓さんのところに遊びに行ったこともあった(笑)」

「フィジカルコーチすらいなくて……」

 Jリーグ開幕当初、たしかに日本サッカー界はバブルに包まれ、選手たちも時代を謳歌した。だが、一方でJクラブの体制や選手のパフォーマンスがそれに見合っていたかといえば、そうではなかったのだろう。

「金額がどれくらいだったかはわからないけど、お金が降って湧いてきたなか“ぬるま湯”に浸かっていた部分はあったと思う。Jリーグ開幕から数年のガンバは、フィジカルコーチすらいなくて……その重要性に気づくまで3、4年はかかったし。選手もコーチも監督も、試合前にどれくらい身体に負荷をかけたらいいかもわからずに、無理にプレーを強要されるなんてことも。その辺は、JSL時代から先を行っていたヴェルディとかマリノスとか他クラブとの差は大きかったと思う」

 振り返ればJリーグ元年、日本人選手が決めた直接FK5本のうち2本は礒貝が決めたものだった。1つが93年11月10日の鹿島アントラーズ戦で、もう1つが同20日のジェフ市原(現ジェフ千葉)戦。いずれも鮮やかな弧を描きブロックに入った壁やGKを無力にする完璧なゴールだった。

「FKはとくに練習したわけではなかったけど、他の選手が蹴るより僕のほうがいいんじゃないかということで蹴っていただけ。当時のボールは曲がらないし、落ちない。よくあんな重たいボールを蹴っていたよね(苦笑)。いまだったら簡単にブレたりするんだろうけど」

 そんなシーンを思い出すと、改めてJリーグ草創期のバブルとは何だったのかと考えさせられる。Jリーグの荒波に才能を潰されてしまった選手は少なくない。

 学生時代からその能力を高く評価されていた礒貝も、そんな1人だったかもしれない。

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文=栗原正夫

photograph by Tomosuke Imai