野球を観ていて冷やっとする場面がある。

 緩めの打球が一塁寄りに転がり、マウンドを駆け下りた投手がその打球を処理したときだ。

 ボールを捕った投手が走りながら下からトスするように一塁手に送球する。その投球スタイルを見ると、何とも言えない思いが脳裏を走るからだ。

「この投手もイップス気味?」

 野球選手、特にボールを投げることを仕事としている投手に、短い距離でのスローイングが苦手な例が意外なほど多い。思い切り腕を振って投げるとボールを制御できるのだが、短い距離で力をセーブして投げようとすると動きがぎこちなくなってきちんと投げられなくなってしまう。

精密な制球力を誇ったあの投手も……

 いわゆるショートスロー・イップス(正式名称かどうかは分からないが、球界ではこう言われることが多い)というやつである。

 実は精密な制球力を誇った元巨人の桑田真澄さんもこの傾向があって、時々とんでもないボールを一塁に投げることがあった。

「あれだけコントロールのいい投手がなぜ?」――時々起こる悪送球の理由が分からず、あらぬ噂を立てられたりしたのも、このイップスが原因だったと思うと合点がいく。

 この他にも横浜や巨人でクローザーとして活躍したマーク・クルーン投手が、ボールを捕ったら一塁にゴロを転がしてアウトを取る場面を見たこともある。元巨人のスコット・マシソン投手や現役ではロッテの澤村拓一投手もショートスローが苦手な傾向がある。

 そういう投手は一塁に近いところでボールを捕ると、ほぼ全員が自分で走って距離を詰めて、最後は下からトスするようにボールを投げてアウトを取る。

 そんな送球を見ると、どうにも背筋に冷やっとしたものが走ってしまうのだ。

 理由はイップスは厄介だ、という思いがあるからだった。

投手生命を絶たれた投手もいる

 一度、この病にかかると一生、ついて回り、最悪のケースはショートスローだけでなくピッチングでも弊害が出るケースもある。そうして投手生命を絶たれた投手も見たことがあったからだ。

 ただ、そんな厄介なイップスを数多くの症例から分析し、その克服の仕方を解説した本に出会った。

『決定版 イップスの乗り越え方──メンタルに起因する運動障害』(BABジャパン刊)という、日本イップス協会会長でイップス研究所の河野昭典所長が書いた本だった。

 河野所長は横浜でイップス研究所を開いてすでに16年の月日が経ち、これまでにイップスだけで7000例、心の病も含めれば1万例を超える症例と向き合ってきている。その経験を踏まえた上で、本書はタイトル通りイップスが起こるメカニズムとその克服への考えを示している。

イップスが起きるメカニズム

 イップスはなぜ起こるのか?

 例えば投手がボールを投げる動作では、大脳がまず投げるという動作指令を出す。ただ、その動作を繰り返し練習することで、自分にあった正しい投げ方を覚えるのは、大脳ではなく無意識の動作を司る小脳なのである。その小脳が大脳から「投げろ」という観念的な指令を受けて、これまでの経験や反復動作から実際の動きへと修正して、大脳の運動野や脊椎にフィードバックする。そうして初めてその投手は思ったボールを投げることができるわけである。

 ところが大脳の指令を受けて実際の正しい動きへと修正するはずの小脳が、極端な不安や緊張などの心的要因で混乱し、正しく大脳にその動きをフィードバックできなくなってしまうことが起こる。

 そうなると「いくら大脳が『こうやって動こう』と指令を出しても、混乱した小脳は状況に応じた修正機能を発揮してくれません。パニック状態の中で、指令(意識)とはまるで違う動きに修正されて大脳に戻り、動作として表面化する」(同書)――それがイップスが起こるメカニズムなのである。

家族や指導者、チームメイトなどとの関係も原因に

 その心的要因としては、故障や過去の失敗、家族や指導者、チームメイトなどとの関係や結果への不安などがある。そういうプレッシャーが過度に増幅されることで、小脳に緊張やパニックが起こって、自分の意思とは全く違う動きをしてしまうことになる。

 しかもイップスはスポーツだけの問題ではない。

 河野所長は過去には演奏中に楽譜が真っ白に見えてしまうようになったギタリストやイメージ通りに指が動かなくなったことから頭がオーバーフローしてしまった音大生、選挙や支持者の期待に応えなければならないという不安からパニック症候群を起こして飛行機に乗れなくなった国会議員など、これまで見てきた様々な症例を紹介しながらイップスの様々な出現の仕方を解説する。

意外と私たちの身近にある障害

 決して他人事ではない。イップスとは気づかないが、意外と私たちの身近にある障害であることを本書は解き明かす。

 そしてこの本の大事なところは、イップスとは決して不治の病ではなく、タイトル通りに乗り越えることができるものだということ、そしてその乗り越え方を様々な角度から解明している点にある。

 イップスを克服していく方法には、もちろん催眠療法などの治療的な方法もあるが、まず大事なのは隠れた自分の本心と向き合い、いまのうまくいかない、弱っている自分自身を受け入れること、それを責めないことだと河野所長は説く。

 その上で実際の場面では力を抜いて、喜怒哀楽を抑え込まずに、新しい自分のイメージを作り出していくことの大切さを強調している。

「人間は何歳になっても変われます」

「人間は何歳になっても変われます。『私はマイナス思考』と言っていた人でも、イメージの転換やセルフコントロールを実践しているうちに、いつの間にか何ごともポジティブに考えていく習慣がついていくこともあります」

「難しいと思った方は、まず『〜しなければならない』という考え方を、『〜したい』『〜になりたい』に転換することから始めてみてください。私はもう何十年も『〜しなければならない』というセリフは口にしていません。皆さんも一緒に続けてみませんか」

 本書はこう説く。

 環境が変化して、新しい自分のイメージを作れれば、イップスを乗り越えられるきっかけが生まれる。

 そのことを伝える。

阪神の藤浪は中継ぎに回って変化が

 実はこの本を読んで、改めて注目をしているのが阪神の藤浪晋太郎投手だった。

WBCで登板した藤浪 (C)Hideki SugiyamaWBCで登板した藤浪 (C)Hideki Sugiyama

 独特のインステップする投げ方という技術的な問題もあり、右打者の内角を狙った投球が抜けて、打者の頭付近を襲うことが何度もあった。そのトラウマから次第に本来の姿を失って、ここ数年は光を失ってしまっていた。

 期待が大きいから首脳陣からも厳しく、高いハードルを課せられて、藤浪自身もそれこそ「こうあらねばならない」という重圧に縛られてきていたようにも見えた。

 本人がイップスを認めるかどうかは別にして、藤浪もまた、一塁への送球を下から投げる投手の1人でもある。

 だが、阪神を襲った新型コロナウイルスのチーム内クラスターで急遽、一軍に昇格し、先発ではなく中継ぎという役割を与えられたことで、新しい自分自身へのイメージが湧いてきているようにも見えるのだ。

 全盛時のような160kmの真っ直ぐを投げ、スライダーの制球も安定し出している。まだ時折、抜け球はあるが、テレビ越しでしか見られなくても、何よりマウンドの表情からは以前の悲壮感がなくなり目に光がある。

「イップスは決して恥ずかしくないのです」

 虎番に聞くと金村暁コーチも良い意味での変化を感じ取っているようで「中継ぎの方が対打者に際して良い感覚をつかめていると思う」と環境の変化がプラス材料になっていることを認めているそうだ。

 その上で「毎日のように投げることによって、対打者になっても、腕を触れるという感覚が出てきたと思います」と技術的にも、きっかけをつかみかけているという評価をしているという。

 まだまだこの先には山あり、谷ありの道が続くのかもしれない。

 それでもこの本の企画・構成を担当した日刊スポーツで野球などを担当し日本イップス協会の認定トレーナーでもある飯島智則さんが、こんなことを書いている。

「取材で一番心に残ったのは、河野先生が口にした『イップスは決して恥ずかしくないのです』という言葉でした。思うように動けないという現象は名誉なことではなく、隠したくなるものです。しかし、その隠そうという思いが苦しみを増幅させてしまいます。

『イップスになった自分も自分ですから、恥ずかしがらずに大切にしてあげて欲しいと思います』

 この言葉は私の生き方までも変えるものでした」

 藤浪やスポーツ選手だけではない。様々なイップスに苦しむ人々にとっても、そう思えることがこの困難を乗り越えていくためのスタートなのだと思う。

文=鷲田康

photograph by KYODO